シャーロキアンのシャーロックホームズ:第5弾『ぶな屋敷』
『ぶな屋敷』の「ぶな」は、何度か耳にしたことのある木の名前ですが、具体的にはどのような木なのかわからないので、調べてみました。「北海道、本州、四国、九州に分布する落葉高木。高さは30m、直径1.5mに達するものもある。樹皮は滑らかで割れ目がなく、色は灰白色あるいは暗灰色。幹表面に地衣類が着生してさまざまな模様をつくる」。(『原寸図鑑 葉っぱでおぼえる樹木』濱野周泰監修、柏書房、P72より)図鑑の写真を見ると、「地衣類が着生してさまざまな模様」が、不気味です。
その不気味さと同じように、破格の報酬にて、家庭教師として雇われた依頼人のヴァイオレット・ハンガー嬢が、雇い主のルーカッスルの邸宅・ぶな屋敷を初めて訪れた際の印象は、「ぶな屋敷はルーカッスルさんのお話のとおり、美しい場所にありましたが、建物は美しくありませんでした。(中略)風雨にさらされ、しみだらけで雨筋の跡が浮いています。(中略)玄関のすぐ前にブナの木立があって、それが屋敷の名の由来となっています」(『シャーロック・ホームズの冒険』の『ぶな屋敷』角川文庫、コナン・ドイル著、石田文子訳 P428より)でした。
図鑑では、「人面木」とも言うべき樹皮が、人の顔のような起伏を作り、コケなどで斑紋を作っています。ブナの木のコケの斑紋と、ぶな屋敷の「しみだらけで雨筋の跡」は、「美しくありませんでした」というハンガー嬢のセリフと符合します。コナン・ドイルは、ブナの木を陰鬱な象徴として考え、タイトルを『ぶな屋敷』にしたのだろうと、私は想像しました。
その想像を裏付けするのは、ぶな屋敷に向かう列車の中で、ワトソンに向けて発せられたシャーロック・ホームズの名セリフです。車窓の美しい田園風景に感嘆しているワトソンに対して、「ロンドンのどんなに薄汚い路地よりも、のどかで美しい田園地帯のほうが、はるかに恐ろしい罪悪を抱えているものなんだ」(同書P426より)と、言い放ちます。この根拠は、都会では人目があるが、田舎の孤立した家々では人目が届かないと言うことです。人目が届かないぶな屋敷こそ、陰鬱で罪悪を抱えているという訳です。
事件発生前の小休止的場面で発せられるホームズのこのセリフは、奇妙な事件への伏線として、私に強烈なインパクトを残しました。それもそのはずです。ある英語引用句辞典に、収録されており、「世界の有名人の名言を編集したのが引用句辞典です。クリスティー、セイヤーズ、チャンドラーなども大判の英語引用句辞典にはのっていますが、ほんのおしるしです。やはり、コナン=ドイルはりっぱな作家といえます」。(『シャーロック・ホームズの冒険(下)』コナン=ドイル著、平賀悦子訳、偕成社、P371より)と、絶賛されているセリフなのです。
名セリフの不安を払拭する活躍をして、ホームズは、ハンガー嬢を恐怖から救い出します。色恋沙汰の少ないホームズものですが、どうやら、ホームズは、ハンガー嬢に好意を寄せていたようです。それは、最後のワトソンの回想録のみから、推測されます。
「彼女が自分の扱う事件の中心人物でなくなったとたん、ホームズは彼女に対する関心を失い、ぼくをがっかりさせた」。(同書、角川文庫版 P450より)ホームズの恋心を、そっと見守る名脇役のワトソンは、最後に「がっかり」はするものの、私は、彼のかげながらの優しさに、陰鬱な事件を忘れさせる清々しさを感じました。
(私はジェレミー・ブレッドのシャーロックホームズシリーズを全て持っています。
少し高齢になりすぎと批判もありますが、私は原典に忠実なこのDVDシリーズは好きです。)