takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

北海道南西沖地震による奥尻島の津波

1993年(平成5年)7月12日、北海道南西沖の日本海で、マグニチュード7.8の地震が発生し、奥尻島では、強いゆれ、津波、火災、土砂崩れの災害が集中した。人口4,700人の奥尻島では、死者・行方不明者は230人にものぼった。震源が奥尻島で、島への大津波が大きな被害につながった。

 

経過

7月12日22時17分に北海道南西沖(北緯42度47分、東経139度12分)で、震源の深さは34km、マグニチュード7.8の大きな地震が発生した。地震の震源地である奥尻島では震度6の烈震(地震計が設置されていないため推定)であった。

地震発生からわずか3分後、22時20分ごろ、津波第1波は島を襲った。島南端の青苗地区では津波によって多数の人と、504戸のうち385戸が流された。さらにプロパンガスボンベや家庭用灯油タンクが火災を拡大し、190戸、約51,000平方メートルが焼失した。奥尻地区では裏山の山崩れでホテルごと飲み込まれ、島外からの宿泊客を含めて29名もの犠牲者がでた。

島北部の稲穂地区では約70戸の家が津波にさらわれ集落が消えた。

22時22分、この地震に伴い、札幌管区気象台は北海道の日本海沿岸に大津波警報を発表した。

津波は日本海沿岸の各地に及んだが、その高さは奥尻島がもっとも高く、稲穂地区で8.5m、奥尻地区で3.5m、初松前地区で16.8m、青苗地区の浸水高は6.7mであった。島西岸の藻内地区では、急傾斜な沢の入口で23.2m、沢の奥で30.6mの遡上高を記録した。島全体では、西側で高く平均で11m、島の東側で低くて平均で5mであった。

また、この地震で、地殻変動による地割れや陥没、建物の倒壊、液状化現象による田畑や道路、灯油備蓄タンクを押し潰して灯油が流出するなど、各地区で大きな物的被害をもたらした。

津波は奥尻島のみにとどまらず、北海道渡島半島西部(檜山管内)や東北地方にもおよび、来襲を繰り返して長時間継続した。

写真1は青苗漁港の被害状況写真2は奥尻地区の山崩れの被害状況である。

 

知識化

本災害から、下記の教訓を得ることができる。

1.ゆれたらすぐ火の始末

2.低地に住むな

3.強い揺れを感じたらすぐ高台へ

また、警報が出てからの行動では手遅れになることがある。本災害では津波の第1波が警報以前に到来していた。

 

背景

「北の沖縄」まさにその愛称にそむかない見事な紺碧の海に囲まれ、ウニ、アワビ、ヒラメ、イカ、ホッケ、タラなど類い稀な海の幸を天から授かり続けてきた奥尻島。豊かな水原、濃密な緑にも恵まれたこの夢の島を、その日に突然襲ったのある。

北海道南西沖地震は1983年日本海中部地震(M7.7)と1940年積丹半島沖地震(M7.5)の震源域の間の空白域を埋めるように発生した。一帯はユーラシアプレートと北アメリカプレートの境界に当たり、両プレートの衝突が一連の地震の原因であった。規模やメカニズムに関しては1983年の日本海中部地震とよく似ている。断層運動に伴った地殻変動により、奥尻島は20cmから80cmも沈降し、さらに西へ1-2m移動した。

 

//// ここまでは、失敗知識データベースから省略・加筆して転載した。

 

あとから、「奥尻震災」と呼ばれた地震である。私は、函館生まれなので北海道南西部出身ということになる。しかし、この頃はすでに埼玉県民だったのでこの地震のことは直接知っている訳ではない。ただ、函館に住む私の親の話では、「家が壊れるかと思うほど激しく揺れた」と言うことだった。北海道南西部は、比較的地震が少ない地域であり、頻繁に発生する釧路沖地震の余波で揺れることはあっても近くでM7.8の地震が発生するということはなかった。

この地震の後に、阪神淡路大震災東日本大震災が発生し、被害者数230人は目立たなくなったが、6月28日のブログで書いた1948年の福井地震(被害者数3,769名)以来の被害である。島民の人口が約4,700名であることを考えると、やはり大災害と言ってよい地震である。

地震学や防災の見地から、この地震は多くの教訓を残している。最初の津波は、地震発生からわずか3分後に襲来している。震源地が島の直下だったためだが、現在のレベルでも発生から3分後に津波がきたら警報は間に合わない。最初から、津波がこないところに住む以外に防災手段はない。また、第1波よりその7分後に襲来した第2波の方が大きかった。さらに、奥尻島は、アジア大陸と北海道の間に位置するため、津波の反射により何度も波が来ている。太平洋側のように10~20メートルの大きな津波は来ないかも知れないが、それでも6~7メートルの高さの津波に何度も襲来されたら被害はどんどん大きくなるだろう。