takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

国内初の臨界事故は、杜撰な工程管理が生んだ

1999年(平成11年)9月30日、茨城県東海村にある核燃料加工施設で国内初となる核物質による臨界事故が発生しました。

事象

事故はJCO東海工場で、同工場では通常ウラン235濃度3~5%の低濃縮ウラン燃料を製造しているが、年に何回か高速増殖実験炉「常陽」で使用するウラン235濃度18.8%の高濃縮ウランの製造を委託されていた。設備は低濃度ウラン燃料用のラインを転用して行っていた。加工はバッチ作業で行われ、事故は最終工程である生成した燃料を再度硝酸溶液とし、製造した何バッチ分かを混合して均一ウラン濃度の製品に仕上げる均質化工程で起こった。いくつかのバッチ分の硝酸ウラニル溶液を均質化させるため容器に投入した時に、突如臨界状態に突入し、大量の中性子線を放射した。このため作業者3名が多量の被曝を受け、そのうち2名が後日亡くなった。臨界状態はなかなか収束せず、半径350メートル以内の住民は強制的に避難させられ、半径10km以内では屋内待避が行われた。臨界状態の停止は、均質化作業のための容器のジャケットの水をドレン弁を破壊して抜くことで行われたが、強力な放射線を浴びながらの作業のため、JCO社員から決死隊を募り、何組もの作業の結果翌日停止させた。さらに、均質化作業の容器に硼酸水を投入することで収束した。臨界状態は20時間にも及んだ。

経過

1999年9月中旬~9月28日 高濃度ウラン燃料を精製した。

29日 精製した高濃度ウラン燃料の複数バッチを、再度硝酸に溶解して硝酸ウラニルとしてから、混合し、均質化の作業を開始した。

 4バッチ目の硝酸ウラニル溶液を容器に投入した。(1バッチは6.5リットルでウラン量は2.4kg)

30日 さらに3バッチの硝酸ウラニル溶液を容器に加えた。

10:35頃 臨界事故が発生し、作業員3名が被曝した。

10:43 消防に救急要請があった。てんかん症状との通報だったがおかしいので、情報収集をしたら、放射線事故と分かった。

 この後、東海村、茨城県、当時の科学技術庁等への連絡が行われ、各レベルの対策本部が設置された。首相を長とする政府事故対策本部も設置された。

15:00 東海村村長が半径350mの住民の避難を指示した。

22:30 茨城県知事が半径10km以内の住民の屋内避難勧告を出した。

22:30頃 臨界状態は収束する様子もなく、政府現地対策本部は当該容器のジャケットの水抜きを決定した。

10月1日 00:25 JCOの社内から募った決死隊の第1陣2名が水抜き作業を開始した。

06:04 第十次の決死隊が漸く水の抜き出しに成功し、臨界は休止した。

08:39 容器に硼酸水の注入が終了し、臨界状態は終息した。

以後、順次避難解除や住民の健康診断などが行われた。

原因

1.一言で言うと、「本来、使用目的が異なり、また、臨界安全形状に設計されていない沈殿槽に、臨界質量以上のウランを含む硝酸ウラニル溶液を注入」したことにつきる。ここで言う沈殿槽が問題になった再溶解、均質化に使われた容器で、名前の通り本来の用途ではない。本来使うべき容器(溶解塔)は作業がしにくいからとして使用されずに、国の許可を得ずして他の容器が使われ、発災当日、また別の容器に、やはり無許可で変えていた。

2.加工の全行程は当時の科学技術庁に提出し、認められた設備と方法で行うことが義務づけられていた。再溶解、均質化の運転法の変化を図に示した。

ここに示したように、正規のマニュアルでは溶解塔を用いて再溶解、均質化を行うことになっていたが、作業がし難いとして、溶解塔の代わりにステンレス製バケツで1バッチずつ溶解した後に、貯塔に移し、1ロット(7バッチ分)の均質化と最終的な小分け容器への分配を行った。貯塔の底の位置が低いため小分けがやりにくいことと、撹拌をバブリングで行うため均質化の時間が長いことから、発災したロットでは、貯塔をやめてずんぐりした形状の沈殿槽を用いた。表面積が小さくなるので、中性子が容器外に出にくい構造の上、ジャケットが設けられているため、ジャケットの水で中性子が反射される。そのことから、背の高い貯塔では起こらなかった臨界状態が沈殿槽の使用で起こった。

なお、均質化より上流の工程ではウラン量2.4kgの1バッチで取扱い、最終工程の均質化だけ7バッチを1ロットとして取り扱っていた。

 

//// ここまでは、失敗知識データベースから省略・加筆して転載しました。

 

被害規模は、3・11のフクシマより小さいのかも知れません、しかし、JCOの事故では2名の死亡事故となっています。フクシマの場合は、被曝による死者は出ていません。もちろん、避難している人達の数、範囲はフクシマの方が遙かに上、このような場合、人命と比較することになるから被害規模の単純比較は難しいものです。

一方、このJCOの事故は、国際原子力事象評価尺度(INES)でレベル4(事業所外への大きなリスクを伴わない)の事故と分類されていますから、人命云々に拘わらず原子力事故としてはフクシマのレベル7(暫定)の方が遙かに上です。。

ただし、3・11の事故は、歴史的規模の大地震と津波耐性に関する設計上の甘さ、信頼性設計の弱さが原因ですが、JCOの事故は、ひたすら杜撰な工程管理が原因です。直接の被害者となった作業員に同情する声もあるようですが、私は同情できません。危険性を教育されていなかったと言うことですが、何を扱っているかは知っていたと思います。国に承認されたマニュアルを勝手に変更し、裏マニュアルとして作業をしてきたこと、さらに事故発生の前日に、もっと便宜的な方法に変更するなどと言う企業体質は絶対にあってはならないのです。

この事故の作業員は3名、被曝した直後はまず国立水戸病院に運ばれたものの、放射線医学の治療を専門に扱う病院が相応しいとして、その日のうちに千葉市にある放射線医学総合研究所に移送されました。しかし、総合的な医療体制をとる必要性から、入院から2日後の10月2日、Cさんは東大病院に、Bさんも東大医科学研究所付属病院に転送されます。沈殿槽を抱くような姿勢で作業していたCさんの被ばく線量は16〜20グレイ、階段上部から溶液を沈殿槽に注ぎ込んでいたBさんは6~10グレイ、そばにいたAさんは1~4.5グレイでした。線量が2グレイを超すあたりから、急性で重度の症状が現れることが多いといわれています。

最も大量の線量を被ばくしたCさんは病院側の懸命の治療にもかかわらず、12月21日、多臓器不全のため東大病院で亡くなりました。またBさんも翌2000年4月27日、多臓器不全のため亡くなっています。さらに、当然のことですが、JCOは2000年4月28日、設備の無認可変更など、原子炉等規制法違反があったとして、科学技術庁から事業認可取り消し処分を受けています。

この事故の後、原子力安全委員会の中に部会として「ウラン加工工場臨界事故調査委員会」(委員長:吉川弘之-日本学術会議会長)が設置されました。103項目の改善提案を盛り込んだ最終報告書をとりまとめるにあたり、吉川委員長が結語の所感として指摘した「二律背反」があります。一方の実現を求めると、片方に不具合が生じるという矛盾です。「安全を向上させると効率が低下する」という代表的な二律背反は、科学技術ではよく直面する課題ですが、吉川委員長は「これらの矛盾を解決しない限り、原子力の将来はない」とまで言い切っています。

以下、8項が吉川委員長が挙げた二律背反です。

  1. 安全を向上させると効率が低下する
  2. 規制を強化すると創意工夫がなくなる
  3. 監視を強化すると士気が低下する
  4. マニュアル化すると自主性を失う
  5. フールプルーフは技能低下を招く
  6. 情報公開すると過度に保守的となる
  7. 責任を厳密にすると事故隠しが起こる
  8. 責任をキーパーソンに集中すると、集団はばらばらとなる

この事故では、同時に会社側の刑事責任も問われました。事故から約1年後の2000年10月16日には茨城労働局・水戸労働基準監督署がJCOと同社東海事業所所長を労働安全衛生法違反容疑で書類送検、翌11月1日には水戸地検が所長の他、同社製造部長、計画グループ長、製造グループ職場長、計画グループ主任、製造部製造グループスペシャルクルー班副長、その他製造グループ副長の6名を業務上過失致死罪、法人としてのJCOと所長を原子炉等規制法違反及び労働安全衛生法違反罪でそれぞれ起訴されています。 2003年3月3日、水戸地裁は被告企業としてのJCOに罰金刑、被告人6名に対し執行猶予付きの有罪判決を下しました。また、被害者でもある作業員Aは製造グループ副長としての現場責任を問われ有罪判決を受けました。