takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

学習塾を開業した方から伺った話「悪が栄えるために必要なのは、善人が何もしないことである」

個人が特定されないように今流行の「改竄」をしています

(「改竄」が有ったかどうかそれは分りません、「改竄」と言う流行語のことを言ってます)

善悪を語る時に目を背けてはならない事は、果たしてそれが本当にそれぞれ「善」、「悪」として正しく認識できているのか、という事だと思うのです。

いや、少し言葉が悪いですね。私自身にとって「善」と信じて疑わない事が、本当に「善」なのか、「悪」と信じて憎む事が本当に「悪」なのか、そこで盲目的になってしまうと、善悪はただの「自分にとって都合か良いか悪いか」だけの判断基準で決められる、非常に曖昧なものとなってしまいます。

 

なぜ、こんな事をお話したかと申しますと、私は若い頃、教師をしておりましたが、よく子どもたちを罰しました。校則を破った生徒、他の生徒を傷つけた生徒、教師に対して敬意を持たない態度をとった生徒、様々な理由で、私は彼らを罰しました。

しかし、この手に残る感触は、どこか後ろめたく、果たして本当に彼らを罰した事が正しいおこないだったのか、今でも振り返っては自問する日々なのです。

 

彼らには彼らの善悪があり、我々教師には理解し得ない主張や信念があるのだろう。

それを、大人の基準で罰せられるものなのか、彼らの王国に存在するルールからすると不本意で理不尽なものにより罰という名の災害が降り注いだだけなのか、そう思ってしまうのです。

 

そうやってずっと悩んできました。

それは、私自身がいわゆる「問題児」だったからに他なりません。

問題児だった私に、問題児というレッテルを貼ったのは大人。その大人を見返したく、そして、大人たちの問題児というレッテルを貼られてしまった子どもに寄り添いたく、私は教師を目指したのでした。

 

しかし、どうでしょう。

いざ、教師になって、私がしてきた事は、あの頃、問題児だった私が不本意で理不尽で暴力的で威圧的だと感じた大人のそれと、同じ事だったのではないでしょうか。

 

悩み続けて四半世紀ほどが経ったころ、私は、エドマンド・バークのひと言に救われました。

 

「悪が栄えるために必要なのは、善人が何もしないことである」

"All that is necessary for evil to succeed is for good men to do nothing."

- Edmund Burke

 

 

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子どもたちのことを「悪」と言うのではありません。

「悪」とは、無垢な子どもたちの心をいつでも付け狙う甘い誘惑の数々です。今思えば、私も問題児だった頃は、この「悪」の底知れぬ魅力に取りつかれ、大人たちに反抗の牙を向けていたのでした。

 

「善」を定義づけるのはとても難しいことですが、子どもたちよりも幾ばくか人生を長く生き、自分なりの「善」を育んできた者が、何もせずに悪が栄えていくのを見ているわけには参りません。悪は魅力をはらんでいます。善は逆に、時に苦痛をともなう事もあります。私とて、生徒を怒鳴りつけたり、必要があれば手を上げた時、この心が痛まない日はありませんでした。

そう、悪は、善よりもはるかに浸透し、蔓延しやすい性質をもっているのです。

 

それゆえ、「善」を持つ者が動かねば、悪はあっという間に侵食してしまうでしょう。

悪を栄えさせないため、悪の侵食を食い止めるためには、善人が何かしなければならないのです。

 

 

 

このエドマンド・バークの言葉は、私の勇気の灯火となりました。心に強く訴えかけ、私を鼓舞してくれました。

もう教師から退いて何年も経ちますが、あの頃「問題児」として私の手を焼かせていた生徒たちのうちの何名かは、私と同じ教師をいう道を選び、そして私と同じ悩みを抱えながら懸命に子どもたちに忍び寄る「悪」の影と闘っています。

そんな彼らが心の葛藤を私に打ち明ける時、私はいつもこの言葉を贈るのです。