訃報・クラウディオ アバァド
今日から原子力の話に戻るつもりでしたが、元ベルリン フィルの指揮者クラウディオ アバァド氏が本年1月20日亡くなったことを昨日知りました。音楽に詳しくはないのですが、アバァドのファンだった私としては、一言書いておきたいと思います。
クラウディオ アバァド(Claudio Abbado)氏は、イタリア、ミラノ出身の指揮者です。生まれは、1933年6月26日そして2014年1月20日、胃がんのためポローニャの自宅で亡くなりました、80歳です。
ミラノの音楽一家で1933年に生まれた彼は、イタリア有数のヴァイオリンの名教育者であり、ヴェルディ音楽院の校長を務めていた父親から英才教育を受けます。アバァド氏は、父親からはヴァイオリン、ピアニストの母親からはピアノを学びます。しかし、本人は10歳の時、アントニオ グァルニエリ指揮、ドビュッシーの夜想曲を聴いて指揮者を志したと言うことです。
それでも、19歳の時には父と親交のあったトスカニーニの前でJ S バッハの協奏曲を弾いたそうですし、指揮者になってからも毎日のようにピアノの練習をしていたということですから、どちらも好きだったのでしょう。
ヴェルディ音楽院を経て、1956年(23歳)からウィーン音楽院(現ウィーン国立音楽大学)で指揮をスワロフスキーに学んでいます。1959年に指揮者デビューを果たした後、カラヤンに注目されてザルツブルク音楽祭にデビューしています。その後は、ベルリン フィルやウィーン フィル、シカゴ、ドレスデンなど世界の一流オーケストラの客演を重ね実績を上げて行きました。
1966年(33歳)には、ベートーヴェンの7番交響曲を皮切りにウィーン フィルやロンドン交響楽団とレコーディングを開始しています。この頃のCDは持っていませんがレーベルはデッカです。また、70年からは、ドイツ グラモフォン専属として多くのピアノ協奏曲を録音しています。この時のピアニストが若きアルゲリッチでした。
その後、1986年には、ウィーン国立歌劇場音楽監督に就任し、音楽面に専念する形でグローバル化を図ります。彼は、イタリア人ですがムソルグスキー等のオペラを頻繁に取り上げ、レパートリー拡充に尽力しています。また、必然的にウィーン フィルとの共演も増え、ベートーヴェンの交響曲全集など数々のレコーディングが実施されました。なにしろ、生涯でべートーヴェン全集を3回録音しています。
1990年には、カラヤンの後任として選出されベルリン フィルハーモニー管弦楽団芸術監督に就任し、名実共に現代最高の指揮者としての地位を確立しています。また、ベルリン フィルとの組み合わせでの初来日は1992年(同行ソリストはムローヴァ、ブレンデル)です。2002年には、健康上の理由からベルリン フィルを辞めています、現在のベルリン フィルの常任指揮者はサイモン ラトルです。
ところで、アバァド氏の音楽を特徴の無い指揮だと言う人もいます。強烈な個性はないようですから、それを特徴が無いと言えばそうなのかもしれません。しかし、DVDなどでインタビューに答えている彼の話を聴くとそうとも言えないのです。アバァド氏にとって重要なのはスコアに載っている音であって、演奏家や指揮者のエゴではないのです。楽団を指揮するとき、彼は常に「みんな、お互いの音楽に耳を傾ける」ことを求めたいたそうです。リハーサル風景を観て聴いていると、楽団員がお互いの音に注意しながら音楽ができあがって行く過程が良く分かります。トスカニーニやカラヤン、ムーティなんかは自分の気に入る音でなければ認めないという個性が強すぎて、私はあまり好きではありません。
ですから、とうぜんのようにソリスト達からの評価は高くまた、アバァド氏の協奏曲はソリストに合わせて大きく変ります。アルゲリッチ、ポリーニ、ブレンデルそれぞれ特徴が上手く生かされていると思います。また、数は少ないですがポルトガルの美人ピアニスト、マリア ジョアン ピレシュとの共演も私のベストアルバムです。
アバァド氏の訃報を伝えた毎日新聞には、元ベルリンフィル第1コンサートマスター安永徹氏の談話が載っていました。
「アバド氏とはオーケストラを通じて10年近くの交流があった。特別な感覚を持った人で、偉大な指揮者というより偉大な音楽家。とても残念です」。
ベストアルバムやDVDの紹介は、次の機会にアップします。
今、数えてみたらアバァド指揮の CD・DVDは34枚ありました。