takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

名作「三四郎」(夏目漱石)を読みました

私は、日本の作家の中では夏目漱石が最も好きです。

その作品の中で、「三四郎」は特に好きな作品です。

今回、考えるところがあって、10年ぶりぐらいで読み返してみました。

繰り返しますが、「三四郎」は漱石の作品の中でも特に優れた作品であると言えます。
今風に言えば青春小説ですが、爽やかな春風を思わせる名作だと思っています。
特に好きな冒頭部分を紹介しましょう。

 夜はようよう明けた。顔を洗って膳ぜんに向かった時、女はにこりと笑って、「ゆうべは蚤は出ませんでしたか」と聞いた。三四郎は「ええ、ありがとう、おかげさまで」というようなことをまじめに答えながら、下を向いて、お猪口ちょくの葡萄豆ぶどうまめをしきりに突っつきだした。
 勘定かんじょうをして宿を出て、停車場ステーションへ着いた時、女ははじめて関西線で四日市よっかいちの方へ行くのだということを三四郎に話した。三四郎の汽車はまもなく来た。時間のつごうで女は少し待ち合わせることとなった。改札場のきわまで送って来た女は、
「いろいろごやっかいになりまして、……ではごきげんよう」と丁寧にお辞儀をした。三四郎は鞄と傘を片手に持ったまま、あいた手で例の古帽子を取って、ただ一言、
「さよなら」と言った。女はその顔をじっとながめていた、が、やがておちついた調子で、
「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」と言って、にやりと笑った。

三四郎は知らない女に揶揄されます。そして、ベーコンの本を読みながら頭の中はその女のことを考えます。

 元来あの女はなんだろう。あんな女が世の中にいるものだろうか。女というものは、ああおちついて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するにいけるところまでいってみなかったから、見当がつかない。思いきってもう少しいってみるとよかった。けれども恐ろしい。別れぎわにあなたは度胸のないかただと言われた時には、びっくりした。二十三年の弱点が一度に露見したような心持ちであった。親でもああうまく言いあてるものではない。――

 

23歳の三四郎は、「二十三年の弱点が一度に露見したような心持ち」で読書ができません。本当に見事な導入部分であって、こんな軽快でかつ主人公の性格を上手く描写している小説はあまりないと思います。
私の時代である昭和の大学生でも、このような出会いの僥倖はありえないでしょう。三四郎の時代は、より封建的な明治。このような「行きずりの女」が、学生を誘うようなことは、もっとありえないでしょう。そして、その機会を逃してしまう三四郎。この冒頭は、今の時代に読んでも、ドキドキさせられますが、明治当時では、画期的な内容だったでしょう。三四郎を誘う「行きずりの女」のインパクトは強烈です。この伏線の後に、再度の「行きずりの女」の登場を期待するわけですが、それ以降、登場しません。

「かげろう」のような「行きずりの女」の登場から退場。その過程における三四郎の優柔不断で不器用さは、この後の物語を支配します。恋愛に関する事件は、起こりそうで起こらないというストーリーを象徴する見事な伏線をはった冒頭シーンです。
「かげろう」のような「行きずりの女」から翻弄された後は、里見美禰子(以下、美禰子)が、「左手の岡の上に女が二人立っている。女のすぐ下が池で、池の向こう側が高い崖の木立で、その後ろが派手な赤煉瓦のゴシック風の建築である。そうして落ちかかった日が、すべての向こうから横に光を透してくる。女はこの夕日にむいて立っている」(同書、P31)と、絵画から飛び出すかのようなシーンにて登場します。この時から、三四郎は、名も知らぬ美禰子に恋心を抱くのでした。そして、美禰子に対しても、はっきりとした態度がとれずに、物語の最後をむかえます。

このように、女性に翻弄され、実らぬ恋の行方を追っかける読者にとっては、「三四郎」は、「青春小説」と最初に書きましたが「恋愛小説」と言ってもいいでしょう。
しかし、三四郎と同じような境遇で、その約80年後に東京生活を始めた私にとっては、「恋愛小説」といった狭い枠ではない、一人の九州男子の成長物語としての「青春小説」ととらえた方が、しっくりときます。
なぜならば、友人となる佐々木与次郎には、借金問題で翻弄され、物理学者の野々宮先生とは、美禰子との「仮想三角関係」というような、一人よがりな思い込みの三角関係に悩んでしまう。その妹であるよし子も、美禰子同様に、近代的な女性として、三四郎の前では、奔放に振る舞います。
美禰子との「恋の行方」も気になる「恋愛小説」ともいえますが、それ以上に、佐々木与次郎以下の名脇役たちとの出会いを通じての三四郎の成長物語としての「青春小説」として読みました。

そして、その読み方は、年齢と共変わりました。最初に読んだ大学生の時は、自分と重ね合わせて読み、最近再読した際は、三四郎の武骨ともいうべき不器用さにお節介を焼きたくなるような感情を覚えました。

さて、名脇役の話に戻りますが、広田先生は、世間ずれしている飄々とした英語教師として描かれています。しかし、佐々木与次郎の広田先生担ぎ上げ運動への風刺等、若者社会へ厳しい審美眼を光らせます。飛躍した読み方をすれば、明治時代の行く末に対して、小説家として、目を光らせていた漱石自身のモデルと見なしてもいいでしょう。
このように仮定すると、最後のシーンで三四郎が、「迷羊、迷羊(ストレイシープストレイシープ)と繰り返した」(同書、P312)のも、三四郎もその他の名脇役も、そして、漱石も「青春」に対して、迷っているのです。 
私にとっても、「三四郎」は、答えのない「迷える青春小説」なのです。

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