takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

森鴎外も読もう-阿部一族

 やっと、鴎外の最高作品まで来ました。文学の話はこれで当分止めます。実は、現在技術士試験対策の本を執筆中でして、ブログ以外では技術の話をずっと書いています。そのため、ブログの方では別の話題になってしまいました。言ってみれば気分転換と言うか気晴らしです。ど素人が漱石や鴎外を語っても、読む人には何の益もありません。この後は、日常生活の中に潜む危険を避け、不慮の事故に遭わないためにはどうするべきかみたいなことを続けて書きます。

 と言うわけで、森鴎外の「阿部一族」です。

阿部一族」は、森鷗外2作目の短編小説です。江戸時代初期に肥後藩で実際に起きた、事件を題材として創作されました。家中の重職であった阿部一族が上意討ちで全滅した事件が主題となっています。作品自体は、大正2年(1913年)1月に『中央公論』誌上に発表されました。

 短編小説ではありますが、二段組みの全集第3巻に収録され、25ページの長さですから文庫本なら50ページ以上になると思います。鴎外の歴史小説の中では長い方です。
 この作品の中で実際に阿部弥一右衛門の話が出てくるのは真ん中辺りです。それまでは、江戸時代に数多くあった主君を追っての殉死(追い腹)に付いての説明が続いています。現代に生きる我々の眼で見れば無駄なことにしか見えませんが儒教道徳が固く信じられていた時代にはこれが正しく立派な生き方だったのです。

 作品の真ん中あたりからのあらすじは以下のような話です。

 あらすじ
 寛永十八年の春、九州熊本の藩主越中守細川忠利の病没にあたって、生前恩顧を受けた18人の家臣が殉死しました。しかし、、当然絢死するものと見られていた阿部弥一右衛門(やいちえもん)の殉死の願いを、生前の忠利はどうしても許しませんでした。弥一右衛門は万事気のきく性格で、まめまめしく主君に仕えたのですが、それが災いして忠利は何となく弥一右衛門の言うことを聴かないようになっていたのです。
 弥一右衛門はやむなく殉死を思いとどまり、新藩主光尚(みつひさ)に奉公します。しかし、藩内の露骨な批判にたまらず、五人の子供等に「しよう事が無い。恥を受ける時は、一緒に受けい」と言い置き、彼等の面前で主君の許しのないまま追腹を切りました。
 しかし、亡くなった前君主である忠利は弥一右衛門の殉死を許していません。ですから、阿部弥一右衛門の遣族の跡目相続は、許されて殉死した他の18人よりも、1段格下の扱いとなりました。そのため、家中のもの達は反って阿部家に対して侮蔑の念を強めます。
 忠利の一周忌の法要は桜の盛りの向陽院で晴々しく行われます。その席上、日頃藩の処分に不満を抱いていた弥一右衛門の嫡子権兵衛は、発作的に武士を棄てようと決心して髻(もとどり)を切って仏前に供えます。光尚はその非礼な所行に悠り権兵衛を縛り首します。
 次男弥五兵衛、三男の一太夫(いちだゆう)等阿部一族のものは、権兵衛の所行は不埒には違いないが、武士らしく切腹を仰せ付けるのが当然と怒ります。次男弥五兵衛の指揮の下妻子を引き纏めて権兵衛の山崎の屋敷に立て籠もります。
 このおだやかならぬ一族の様子は、すく城方の知るところとなります。討手の軍勢が編成され、竹内数馬を指何役とする討手は、4月21日の払暁阿部一族の立て籠もった山崎の屋敷に向います。討手の軍と激闘の末、阿部一族は滅亡しました。

 

 鴎外は阿部弥一右衛門の話に入る前に内藤藤十郎と言う十代の侍が殉死に向かう様子を見事に描写しています。少し長いですが鴎外の名文を読んでみて下さい。

 

 四月十七日の朝、長十郎は衣服を改めて母の前に出て、はじめて殉死のことを明かして暇乞(いとまご)いをした。母は少しも驚かなかった。それは互いに口に出しては言わぬが、きょうは倅が切腹する日だと、母もとうから思っていたからである。もし切腹しないとでも言ったら、母はさぞ驚いたことであろう。
 母はまだもらったばかりのよめが勝手にいたのをその席へ呼んでただ支度が出来たかと問うた。よめはすぐに起(た)って、勝手からかねて用意してあった杯盤を自身に運んで出た。よめも母と同じように、夫がきょう切腹するということをとうから知っていた。髪を綺麗に撫(な)でつけて、よい分のふだん着に着換えている。母もよめも改まった、真面目な顔をしているのは同じことであるが、ただよめの目の縁《ふち》が赤くなっているので、勝手にいたとき泣いたことがわかる。杯盤が出ると、長十郎は弟左平次を呼んだ。
 四人は黙って杯を取り交わした。杯が一順したとき母が言った。
「長十郎や。お前の好きな酒じゃ。少し過してはどうじゃな」
「ほんにそうでござりまするな」と言って、長十郎は微笑を含んで、心地(ここち)よげに杯を重ねた。
 しばらくして長十郎が母に言った。「よい心持ちに酔いました。先日からかれこれと心づかいをいたしましたせいか、いつもより酒が利いたようでござります。ご免をこうむってちょっと一休みいたしましょう」
 こう言って長十郎は起って居間にはいったが、すぐに部屋の真ん中に転がって、鼾(いびき)をかきだした。女房があとからそっとはいって枕を出して当てさせたとき、長十郎は「ううん」とうなって寝返りをしただけで、また鼾をかき続けている。女房はじっと夫の顔を見ていたが、たちまちあわてたように起って部屋へ往った。泣いてはならぬと思ったのである。
 家はひっそりとしている。ちょうど主人の決心を母と妻とが言わずに知っていたように、家来も女中も知っていたので、勝手からも厩(うまや)の方からも笑い声なぞは聞こえない。
 母は母の部屋に、よめはよめの部屋に、弟は弟の部屋に、じっと物を思っている。主人は居間で鼾をかいて寝ている。あけ放ってある居間の窓には、下に風鈴をつけた吊荵(つりしのぶ)が吊ってある。その風鈴が折り折り思い出したようにかすかに鳴る。その下には丈(たけ)の高い石の頂(いただき)を掘りくぼめた手水鉢がある。その上に伏せてある捲物の柄杓(ひしゃく)に、やんまが一疋(いっぴき)止まって、羽を山形に垂れて動かずにいる。
 一時(ひととき)立つ。二時(ふたとき)立つ。もう午(ひる)を過ぎた。食事の支度は女中に言いつけてあるが、姑(しゅうとめ)が食べると言われるか、どうだかわからぬと思って、よめは聞きに行こうと思いながらためらっていた。もし自分だけが食事のことなぞを思うように取られはすまいかとためらっていたのである。
 そのときかねて介錯を頼まれていた関小平次が来た。姑はよめを呼んだ。よめが黙って手をついて機嫌を伺っていると、姑が言った。
「長十郎はちょっと一休みすると言うたが、いかい時が立つような。ちょうど関殿も来られた。もう起こしてやってはどうじゃろうの」
「ほんにそうでござります。あまり遅くなりません方が」よめはこう言って、すぐに起(た)って夫を起しに往った。
 夫の居間に来た女房は、さきに枕をさせたときと同じように、またじっと夫の顔を見ていた。死なせに起すのだと思うので、しばらくは詞(ことば)をかけかねていたのである。
 熟睡していても、庭からさす昼の明りがまばゆかったと見えて、夫は窓の方を背にして、顔をこっちへ向けている。
「もし、あなた」と女房は呼んだ。
 長十郎は目をさまさない。
 女房がすり寄って、そびえている肩に手をかけると、長十郎は「あ、ああ」と言ってひじを伸ばして、両眼を開いて、むっくり起きた。
「たいそうよくお休みになりました。お袋さまがあまり遅くなりはせぬかとおっしゃりますから、お起し申しました。それに関様がおいでになりました」
「そうか。それでは午になったと見える。少しの間だと思ったが、酔ったのと疲れがあったのとで、時の立つのを知らずにいた。その代りひどく気分がようなった。茶漬でも食べて、そろそろ東光院へ往かずばなるまい。お母あさまにも申し上げてくれ」
 武士はいざというときには飽食はしない。しかしまた空腹で大切なことに取りかかることもない。長十郎は実際ちょっと寝ようと思ったのだが、覚えず気持よく寝過し、午(ひる)になったと聞いたので、食事をしようと言ったのである。これから形(かた)ばかりではあるが、一家四人のものがふだんのように膳に向かって、午の食事をした。
 長十郎は心静かに支度をして、関を連れて菩提所(ぼだいしょ)東光院へ腹を切りに往った。

 

  太字のところは、私が強調しました。特に好きなところです。実際に、やんまが一匹止まっていたのかどうか、それは分かりません。長十郎は、まだ十代です。十代の若者が、切腹を前にしてこれほど剛胆でいられるのかと怪しんでしまいますが、恐らくここは、本当にこうだったのでしょう。もちろん、私にはできません。