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takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

一般向けの科学の本、最良の本はこれです。『ガリレオの指』第2章-DNA-生物学の合理化-2

 昨日は、第2章-DNAのメンデルに関するところだけご説明しました。今日はその後の部分です。

 

 DNAこそが遺伝情報を担う物質だと分かってからは、その分子構造に関心があつまりました。その構造がある程度分かったのはアメリカの生化学者エルヴィン シャルガフ(1905~2002)のおかげです。1950年、彼は、当時の新しい分析手法だった「ペーパークロマトグラフィー」を使ってDNA中の物質量を調べました。実験によりDNA中のアデニンとチミンの量は等しく、グアニンとシトシンの量も等しいことが分かりました。しかも、どの組織から取り出したDNAでもそうだったのです。これは、何らかの形でアデニンとチミン、グアニンとシトシンが常に関係していることを示します。さらに、このペア同士の比率は、同じ動物ではどの組織でも一緒で変化しないのに、種がことなると比率が変ることも分かりました。言い換えると、DNAには多くの種類がありそれは種毎に異なることが分かったのです。そう、まるで個々の生物に対する設計図のように。

 

 その後間もなく、DNAの姿が解明されました。ロンドン大学キングズ カレッジのモーリス ウィルキンズ(19116〜2004)とロザリンド フランクリン(1920〜58)がX線回折の研究で重要なデータを得て、その結果をケンブリッジ大学のフランシス クリック(1916〜2004)とジェームズ フトソン(1928〜存命)が利用したのです。この20世紀を代表する大発見に関しては数え切れないほど多くの話が語られています。また、科学の悲劇でもありました。ロザリンド フランクリンは、無防備に行ったX線撮影により大量の放射線をあび37歳の若さで卵巣癌でなくなります。

 

 この発見に関する物語は、アトキンスの『ガリレオの指』よりも、『ロザリンド・フランクリンとDNA―ぬすまれた栄光』:アン セイヤー著/深町 眞理子(草思社、1979年/1月)に詳しいので、別の機会にご紹介します。

 

 DNAの構造解明は、二通りの研究者たちによって進められました。ひとつは、綿密に測定しながらも、解釈を提示する勇気(あるいは衝動) のない研究者たち。もうひとつは、豊かな発想に恵まれながらも、測定する能力に欠ける研究者達です。

 

 ロンドン大学キングスカレッジでロザリンド フランクリンの研究発表を聴いたジェームス ワトソンは、ケンブリッジにもどりフランクリンのデータを説明できそうなモデルをフランシス クリックと一緒に組立てます。ある程度完成したところで、キングス カレッジのチームを招いて見せたのですが、キングス カレッジのチームはただちにそのモデル(針金と金属片で作られた模型)を却下します。しかも、のちに実際にそうだと証明されたモデル作り自体に意味がないと切り捨てました。

 

 さらに、追い打ちを掛けるようにワトソンが所属する研究室の所長サー ローレンス ブラッグは、ワトソンとクリックに対しにDNA研究をやめろと命じます。キングズ カレッジのチームのプロジェクトなのだから、彼らに任せておけと。

 

 しかし、米国の研究チームも同じテーマを研究していることが分かり米国チームに先を越されないためにワトソンとクリックは研究を続けることになります。

 

 その直後、フランクリンを自分の部下だと思い込んでいたウィルキンズにより、フランクリンのX線回折写真が本人の了解なしにワトソンの手に渡ります。ワトソンとクリックはその写真から、らせん状分子のサイズを知るための定数がいくつか手に入れ、モデルをそれに合うように修正できたのです。

 

 1953年4月25日、《ネイチャー》誌に三つの論文が掲載されました。ひとつはクリックとワトソン、ひとつはウィルキンズのグループ、ひとつはフランクリンのグループによるものです。(フランクリンは、自分のデータがウィルキンズを介して他人の手に渡ったことをまったく知りませんでした)。結果的に、最初のひとつの仮説を、残りふたつのデータが裏付ける格好となりました。この論文発表の日が、現代生物学誕生の日であるとアトキンスは語っています。