takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

一般向けの科学の本、最良の本はこれです。『ガリレオの指』第2章-DNA-生物学の合理化

深遠なアイデア-遺伝形質はDNAに暗号化されている。

 

59~104頁

 

 45頁を300文字に圧縮するとアトキンスはこう言っています。

 

 およそ150年前に行われたグレゴール メンデルの実験によって遺伝子という概念が考え出され(メンデルの死後)、20世紀初頭には染色体が遺伝の媒介者ではないかと仮説が立てられるようになった。1944年、生化学者オズワルド エイヴリーは、肺炎連鎖菌を調べる実験の中で遺伝情報が核酸に暗号化されていることが実証し、遺伝子の理解は大きく進んだ。その後さらにDNAこそ遺伝情報を担う物質だと分かってからは、誰もがその分子構造に関心を持ち、ロザリンド フランクリンががX線回折の研究で重要なデータを得て、その結果をケンブリッジ大学のフランシス クリックとジェームズ ワトソンが利用したのである。その後50年、21世紀になってヒトゲノム全容が解析され人は分子レベルで理解された。

 

 グレゴール ヨハン メンデル(1822年7月~1884年1月)はお金がなくても学業を続けるために、当時オーストリア帝国のブリュン(現在はチェコのブルノ)にあるアウグスティノ会の聖トマス修道院に入り修道士となりました、グレゴールは修道名です。1847年メンデルは司祭となります。彼は、ウィーン大学への遊学も許可され教師となるために科学と数学を学びましたが、大学での成績は悪く特に生物学は酷かったようです。結局2年後修道院にもどり1868年には修道院長に就任しています。

 

 メンデルには、いくつもの顔があります。フランツ ヨーゼフ(オーストリア皇帝フランツ ヨーゼフⅠ世)から勲章を授かった高位聖職者。モラヴィア不動産銀行の名誉理事。オーストリア気象協会の創立者(没した時点では気象学者としての評価が高かったようです)。さらには、モラヴィア シレジア農学会の会員。しかし現在、より重要なのは園芸家としての顔でしょう。1850年代、メンデルは死後有名になる実験に取りかかります。

 

 この実験については、結果のデータや彼の助手が信用できないとして、何度も異議が唱えられていますが、注目を浴びたのがメンデルの死後ですから本人が「記者会見」で釈明するような事態にはなっていません。怪しさの根拠は実験データが整いすぎていることです。とは言え、私などは、当時の水準ではこんなものだろうと思っています。現代だって、ノートがみつからないとか何とか言っている研究者もいるのですから。

 

 1865年、メンデルは、研究の結果をブリュン自然科学会で2月8日と3月8日の2回にわたって発表しました。この研究結果は、『雑種植物の研究』 (岩波文庫) [文庫-1999年刊]として出版されています。また、この本は古本なら今でも購入できます(アマゾンで1000円くらい)。

 

 メンデルの実験結果報告は、実質的には失敗を語る物寂しい報告でした。そのため、世の注目を集めることもなく1900年まで35年間地下に埋もれたままになります。メンデルの死後16年経った1900年、オランダのヒューゴー ド フリース、ドイツのカール エーリッヒ コレンス、オーストリアのエーリッヒ チェルマク フォン ザイゼネックという3人の植物学者が、それぞれメンデルのことは知らずに同じ結果を得たと発表しました。しかし、この3人も35年前にメンデルが先行して同じ結論に達していることが分かったため、メンデルは死後、遺伝メカニズムの発見者として有名になります。

 

 ところで、エンドウマメを使った実験ですが、エンドウは交配しやすく成長が早くメンデルの実験には適していましたが、見栄えのよい植物ではありません。そのため、現在も残っているアウグスティノ会の聖トマス修道院のメンデルが実験を行った庭にエンドウの姿はなく、綺麗なベコニワが植えられているそうです。

 

続く。