takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

アトミック パワー・解き放たれた力-1

 フエルミやシラードのアイデアによって、世界最初の原子炉「シカゴ パイル1号(通称CP-1)」は人間の力で制御しながら核分裂の連鎖反応が行えることを実証しました。1942年12月2日のことです。その後すぐに、核分裂の連鎖反応を一瞬で行い膨大なエネルギーを一瞬で解き放つ(つまり爆発させる)ためその原料の大量生産を開始します。それが、前回お話ししました、プルトニウム生産炉であるハンフォードB炉です。この炉は、爆弾の原料を作るためのだけの専用炉ですから、発電機用のモータは付属していません。B炉は、1944年9月に運転開始、同年12月28日に臨界に達します。さらに、続いてハンフォードD炉も1944年12月17日に臨界に達し、三基目のF炉は1945年2月に運転を開始しします。B、D、Fの3つの原子炉は、後にアメリカが何百回と繰り返した核爆発実験の原料を作り続けたのです。

 1866年に、アルフレッド ノーベルニトログリセリン珪藻土にしみ込ませ安全化し、さらに雷管を発明して爆発のコントロールに成功しました。およそ、80年後アメリカの物理学者は、放射性物質の濃度と減速材の組み合わせでTNT火薬よりも遙かに大きなエネルギーを持つ原子の「爆薬」を作り出したのです(正確な表現ではありません)。

 さて、日本での原子炉はどのように開発されたのでしょうか。日本では、原子力平和利用の推進を目的として「日本原子力研究所(JAERI)」が、1956年(昭和31年)6月に特殊法人として設立されました。その翌年には、日本最初の原子炉JRR-1が臨界に達していますから設立の随分前から準備は進めていたのでしょう。

 ちなみに、日本の技術者がアメリカ合衆国のアルゴンヌ国立研究所で原子力技術を学んだのは1955年以降です(戦後10年経っています)。アルゴンヌ国立研究所に留学した技術者たちの中には、後に原研大洗研究所所長となる鳥飼欣一氏もいました。彼ら、アルゴンヌ留学生たちが、帰国後、茨城県東海村日本原子力研究所で本格的な原子力平和利用の研究を開始し、準備はしていたとは言え僅か2年で日本初の実験用原子炉を作り上げたのです。

 その後、日本原子力研究所は、2005年(平成17年)10月1日核燃料サイクル開発機構との統合に伴い解散となり、独立行政法人日本原子力研究開発機構となりました。また、原子炉としては、1号機のJRR-1(濃縮ウラン軽水炉-出力50kW、茨城県東海村、1957年8月臨界 - 1968年9月運転休止)と、2号機(90-20%・濃縮ウラン重水炉-出力10MW、茨城県東海村、1962年4月17日臨界(90%燃料) - 1970年10月1日臨界(20%燃料))はすでに運用停止、廃炉となっています。

 日本の原子力関係施設には、海外の施設と大きく異なる特徴があります。それは、絶対安全を表明するがために安全のシールドが破られた時の想定をしないことです。もちろん。これにはマスコミや一般公衆の責任もあります。放射性物質が漏れたことを想定した訓練など始めたら「やっぱり、危険なんじゃないか?」とか、「だからそんなモノを作らなければいいんだ!」と騒がれてしまいます。下手をすると騒がれるどころか、記者会見を開かされて「それでは、放射性物質が外部に漏れることもあるのですね?」などと質問されてしまいます。こんな時、政治家なら「大丈夫で安全です」と答えるでしょうが、科学者・技術者であれば「可能性はあります」と答えるでしょう。

 海外の原発では、最悪の事態を想定した訓練も行っています。防護服を着てパイプのバルブを開けたり、閉めたりする訓練も行うのです。一人では動きません、力を合わせて数名で行う必要がありますが、防護服を着ると隣の人とコミュニケーションができなくなるのです。日頃から訓練を行っていないと、本番では何にもできません。