takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

難しい本を無理して読む-2

 昨日ご説明しました「善の研究」で続けます。文章の言い回しが古くて読みにくいと言うのもあります。確かにそれもあるのですが、それよりも話が飛んで行くところが分からないと言う方が良いのかもしれません。昨日の文の続きを引用します。

 
 しかしこれらの知識は正当の意味において経験ということができぬばかりではなく、意識現象であっても、他人の意識は自己に経験ができず、自己の意識であっても、過去についての想起、現前であっても、これを判断した時は己(すで)に純粋の経験ではない。真の純粋経験は何らの意味もない、事実其儘(じじつそのまま)の現在意識あるのみである。
 右にいったような意味において、如何なる精神現象が純粋経験の事実であるか。感覚や知覚がこれに属することは誰も異論はあるまい。しかし余は凡(すべ)ての精神現象がこの形において現われるものであると信ずる。記憶においても、過去の意識が直(ただち)に起ってくるのでもなく、従って過去を直覚するのでもない。過去と感ずるのも現在の感情である。抽象的概念といっても決して超経験的の者ではなく、やはり一種の現在意識である。幾何学者が一個の三角を想像しながら、これを以て凡ての三角の代表となすように、概念の代表的要素なる者も現前においては一種の感情にすぎないのである。
(振り仮名は、匠)

 

 昨日の冒頭部分よりさらに分かりにくいと思います。最初の「これらの知識」の「これら」とは、物理学、化学等の自然科学系の学問的知識のことです。ですから言い換えると以下のようになります。

「物理学、化学等の知識は正当の意味において経験ということができぬばかりではなく・・・」
 上記文章の第一パラグラフでは、「~ということができぬばかりではなく、~であっても、~できず、~であっても、~であっても、~ではない。」と続けてから「真の純粋経験は何らの意味もない、事実其儘(じじつそのまま)の現在意識あるのみである。」と締められても読んでる方は「はぁ~?」となるでしょう。少なくとも私には「?」です。
 そこで、さらに第二パラグラフで、「右にいったような意味において、如何なる精神現象が純粋経験の事実であるか。感覚や知覚がこれに属することは誰も異論はあるまい。」と言われても、異論を唱えるどころか「言ってることが分かりません」となるわけです。 昨日の部分だけで「純粋経験」なるものを定義したつもりなのでしょうが、実は定義されていません。昨日の冒頭部分で「純粋経験」=「直接経験」と言って、今回は、感覚や知覚が純粋経験に属すと言ってます。さらに「余は凡(すべ)ての精神現象がこの形において現われるものであると信ずる。」と自分の信念をさらけ出していますが、読んでる方には伝わりません。

善の研究」は、明治44年1月に出版された本です。明治の始めに日本は西洋思想を大量に輸入しました。これが、40年かけて消化不良を起こしながらも、自らの力で書き上げた日本人による最初の独創的な哲学と言って良いでしょう。そのため、その弟子達によって実際よりも遙かに高く評価され続けました。西田幾多郎の講義を直接聴いた弟子達なら本人から説明されていますから、もう少し理解できたのではないかと思います。ちなみに、戦前は、東大の文学部に入るとカントの「純粋理性批判」と西田の「善の研究」は暗記するほど読み込む必要があったそうです。お気の毒としか言いようがありません。

 全4編27章の本を冒頭部分だけで全否定するわけではありませんが、どのページを開いても普通の人には理解できない文章が散りばめられている本です。