takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

小林秀雄から柳田國男

 分野は全く異なるのですが、若い頃(20代前半の頃)柳田國男(1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)の本を読み耽ったことがありました。もちろん、文藝評論家小林秀雄の影響です。現在、ちくま文庫柳田國男全集はPDFとなって私のパソコンに入っています。その全集第4巻に「山の人生」と題するエッセイーがあるのですが、私のお気に入りですのでご紹介したいと思います。

 

 

山の人生

1-山に埋もれたる人生ある事

 

 今では記憶している者が、私のほかには一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、餓(まさかり)で切り殺したことがあった。

 女房はとくに死んで、あとには13になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の自にも空手で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。

 眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢に入れられた。 この親爺がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕ばみ朽ちつつあるであろう。

 

 

 大変悲惨な話で、読むのも辛いのですが、小林秀雄は講演の中で「悲惨な話ですが、見方を変えると健全な話」だと言っています。つまり、息子はお父さんが可哀想で仕方がなかったのです。そりゃ、お腹も空いて自分も辛いけど、父親はそんな自分たちに何とか食べさせようと懸命に働いている、それなら自分たちが死ねば父親も少しは楽になるはずだ。そう考えて、13歳の息子は、自分の首を切り落とす斧を研いだのです。「父親を思う気持ちが斧を研がせた」、小林秀雄はそう言っています。

 小林秀雄は、父親の行為を美化して言っているのではありません。そうでは、ありませんが人間が生きていく苦悩の中に美を見たのでしょう。

 小林秀雄は、美しいものが好きで美しいものについて語りたくて一生苦しんだ評論家です。絵画や音楽について多く語っていますが、絵画や音楽は元々言葉の終わるところから始まりますから、どれだけ言葉を尽くしても絵画や音楽の美しさを伝えることはできません。小林秀雄は、そこに苦しんだのだと思っています。