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takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

難しい本を無理して読む

 一口に難しい本と言っても色々あります。以下、簡単に分けてみます。

  1. 書くべき対象が難解で、作者自身がそれを十分理解せずに書いているため、難解になっている本。
  2. 本当は、簡単な話なのに作者が気取って難しく書いてある本。
  3. 逆に、こちらに読む力が不足している本。

(3)は、工学関係の専門書に多く見られますが、これはある程度仕方がないかもしれません。はっきり言って仲間内だけで読む本です。「専門用語が分からなかったら自分で勉強しろ」みたいな書き方になっています。そんな時は、用語辞典を脇に置いて、入門編から初級、中級と進みましょう。私も、電気工学の本なんかはそうやって勉強しました。

(2)は、海外の思想を日本に輸入した学問に多いようです。特に、社会科学系の本によく見られます。やたらとカタカナ語が出てくる本です。権威を付けるために横文字をカタカナ語にして散りばめているのでしょうが、無意味です。ぜひ、止めてもらいたい本の書き方です。

(1)は、昔の哲学などの本によく見られます。その代表は故西田幾多郎でしょうか?私は、この頃の本をあまり読まないのでサンプル数は多くありませんが、何が言いたいのか分からない本の代表は西田幾多郎の「善の研究」でした。同じ明治時代の本でも福澤諭吉の本はとても分かりやすい本です。

 

 そこで、今日はその難しい本の代表選手に登場して頂いてどこが難しいのか考えてみたいと思います。テキスト自体は、岩波文庫で今でも購入できると思います(購入の必要はありません)。私が購入したのは随分昔ですが、奥書は以下のようになっています。

1950年1月10日第1刷発行
1979年10月16日第48刷改版発行。
1982年10月10日第52刷発行
定価350円
すごいですね、32年で52刷りも発行されているんです。何がこの本の魅力なのでしょう。これは、私の予測ですが、純粋経験等(ピュア イクスピリアンス)」というわけが分からない単語に魅力を感じているのだと思います。では、その分けの分からない単語の章を冒頭から読んで見ましょう。

 

第1章 純粋経験

 経験するというのは事実其儘(じじつそのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫(ごう:問題にならないくらい わずかなの意味)も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那(せつな)、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。
 それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇(さいじゅん:最も混じりけの無いと言う意味)なる者である。勿論、普通には経験という語の意義が明に定まっておらず、ヴントの如きは経験に基づいて推理せられたる知識をも間接経験と名づけ、物理学、化学などを間接経験の学と称している。
(改行、ふりがな、単語の意味は、匠)

 


 この文の問題点は「それで純粋経験は直接経験と同一である」にあります。作者は、「それで」の前に3つのことを言っています。

  • 経験=事実をそのまま知ること。
  • 純粋=全く自分の考えや判断を加えない、真に経験したそのままの状態。
  • 次に、例として色を見たり、音を聞いたりした瞬間、それが何であるか判断する前の状態が純粋であると、言っています。

 そこから、「それで純粋経験は直接経験と同一である」といきなり来てさらに、「自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している」と続きますから、これで読者の頭の中は「???」で一杯になります。

明日に続きます。