読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

事故・災害多発の日-原子力船「むつ」の放射線漏れ

9月1日は、東京都民なら防災の日である。90年前の今日、1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分、神奈川県相模湾北西沖80kmを震源として発生したマグニチュード7.9の地震が発生した。

最近の調査では、190万人が被災、10万5千人余が死亡あるいは行方不明になったとされている。以前は、14万人の死者と伝えられていたが、14万人の数字には重複(ちょうふくと読むのが正しい、じゅうふくは間違い)して数えられているデータがかなり多い可能性が指摘され始め、理科年表では、2006年(平成18年)版から修正され、数字を丸めて「死者・行方不明 10万5千余」となった。恐らく、正しいのは、10万5千~6千の間なのだと思う。また、東京の被害ばかりが伝えられているが、死者数、住宅被害共に震源地に近い神奈川の方が東京よりも多い(神奈川:58,000人ー東京:35,000人)。

しかし、ここでは、自然災害よりも「人」起源の事故を優先して書いてきたため、今回もその原則にしたがって39年前に発生した日本初の原子力船「むつ」の事故に触れたい。

原子力船むつ放射線漏れ

1974年(昭和49年)9月1日、青森県沖の太平洋上で、原子力船「むつ」が、原子炉の出力を約1.4%まで上げた時、主として高速中性子が遮蔽体の間隙を伝わって漏れ出る「ストリーミング」と呼ばれる現象によって、放射線漏れとなり警報ブザーが鳴った。

事象

原子力船「むつ」が、青森県尻屋岬東方800kmの試験海域での出力実験で、原子炉の出力を約1.4%まで上げた時、放射線増大の警報ブザーが鳴った。マスコミは「原子力船むつ、放射能漏れ」と報じた。地元の青森県、むつ市および青森漁連は、放射線漏れを起こした「むつ」の安全性を疑い、大湊港への帰港に反対した。

原因

(1) 放射線漏れの原因

放射線漏れは、原子炉上部の遮蔽リングで起こった。主として高速中性子が遮蔽体の間隙を伝わって漏れ出る「ストリーミング」と呼ばれる現象によって、放射線漏れとなり、警報ブザーが鳴った。当時我が国には、遮蔽設計の実例が少なく、経験が重要なこの分野における本来の遮蔽設計専門家がほとんど育っていなかった。設計にあたって、計算の難しい複雑な形状の遮蔽材の遮蔽能力についての判断力が足りなかった。また、この設計を米国ウエスチングハウス社に確認してもらった際に、「ストリーミング」の可能性を指摘されていたが、なんら反映されなかった。

(2) 放射線遮蔽効果の確認不足

船体と原子炉が分割発注されたことで、遮蔽設計への取り組みが甘く、総合的な遮蔽効果確認がおろそかになっていた可能性が考えられる。

(3) 「放射線漏れ」を「放射能漏れ」と報道した。

放射線漏れに関して、マスコミが「放射能漏れ」と報道したため、ホタテ貝への汚染の影響など「放射能漏れを引き起こした原子力船」のイメージを植え付けてしまった。公の場所でも「放射能漏れ」の言葉のまま調査検討が続き、住民の反対運動も激しくなり、新定係港の決定の遅れなどで、開発プロジェクトが大幅に遅れてしまった。

知識化

(1)事故への適切な対応には、事故内容の正確な伝達が不可欠である。

原子力船「むつ」が起こした事態を「むつ放射線漏れ」と正確に把握していたにもかかわらず「むつ放射能漏れ」でよしとした判断が立法にも行政にもあった事実は不思議である。

(2) 一旦伝わった情報のイメージは容易には変わらなく、影響が続く。とくにマスコミの影響は大きい。1999年にテレビ局が行なった「狭山ダイオキシン報道」(せん茶からの検出結果を野菜から高濃度のダイオキシンが検出された、との報道で野菜の価格暴落などの損害を受けた)なども同様である。

(3) 業務の分割はその接点で問題が発生する可能性がある。

背景

当時、世界の造船・海運界においては、拡大する貿易量に対処するため、船舶の大型化、高速化を図る傾向が著しく、これに必要とされる高出力推進機関としては、在来推進機関では消費燃料の増大などの点に問題が生じるために限界が予想され、また、石油の国際的需給問題からも原子力船の実用化に対する期待は大きかった。

原子力船の実用化のためには、在来船と経済的に十分競合でき、かつ安全性、信頼性が十分である原子力船の技術開発に努めることはもとより、原子力船の安全に関する国際基準の制定、出入港及び航行の自由のための制度確立等の諸問題を解決しなければならない、としていた。

造船海運国の日本として、将来に予想される原子力船時代に備えて、原子力船の研究開発を着実に進めていくことが必要であるばかりでなく、実用化を促進するために原子力船の安全性等に関する国際的な基準の早期確立に積極的な役割を果すべきである、と考えていた。

この背景のもと、原子力船「むつ」の研究開発は、1963年8月に日本原子力船開発事業団を設立するとともに、「原子力第1船開発基本計画」に沿って進められていた。

 

//// ここまでは、失敗知識データベースから省略・加筆して転載した。

 

放射線漏れの原因は、設計ミスである。しかし、放射能漏れと微量の放射線漏れを混同し社会を混乱させ、「むつ」の実験継続を難しくしたのは、行政側の責任と言って良い。正直に正確に伝えるのと、危険を誇大に伝えるのは全く異なる。福島の事故も全く同じと言えるだろう。恐らく、後何年も掛けないと福島原子力発電の事故は、正確に評価されず対策を立てることもできないと思う。私自身は、核融合高速増殖炉に限らず日本の原子力利用はもう終わりなのではないかと悲観的に見ている。福島の事故が発生する前は、「1970年より前に建造された原子力発電基は、早めに第4世代の原子炉に交換し、耐用年数を考慮に入れ2050年までには、全て第4世代の原子炉に切り替える。その後は、研究の進み具合を見ながら、高速増殖炉核融合を22世紀のエネルギー源として計画すべきと考える」等と、技術士の模擬試験に答案文として書いたことがある。また、再生可能エネルギーは、地熱と水力だけで良いとも書いたがその考えは今も変わらない。

話しを戻そう、原子力船「むつ」の実験そのものは、失敗ではない。しかし、25年の歳月と1200億円を使って今後の原子力船時代に備えようとした計画は全くの失敗だった。また、原子力船は10万トン以上の大きな船にしなければ採算が合わないため、商業用原子力船は計画すら立てられない状態だった。なぜ、こんな無駄で、原子力の社会的評価を下げるような実験を行なったのだろう。プロジェクトが計画される段階の議事録でもあれば、どのような経緯で実行段階に進んだのかわかると思うが、私には手に入れることはできない。

「むつ」は、上記1974年の事故のあと、遮蔽改修工事実施され1983年には新定係港の関根浜港が決まり再び出力上昇試験が行われた。その後は、海上試運転が行われ、ウラン235約4.2kg(ゴルフボールの大きさぐらい)(野球のボールより一回り大きい直径8.2センチ程度の大きさ、実際の燃料は球体ではない)を燃焼させて(石油なら5千トン必要)、合計約82,000km(地球2周以上)を原子動力で航行した。役目を終えた「むつ」は1992年に廃船となっている。