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takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

45年前の青森県東方沖地震・函館大学校舎が崩壊

1968年(昭和43年)5月16日午前9時48分、 青森県東方沖でマグニチュード7.9の地震が発生した。最大震度は、北海道の函館市震度5、当時は強弱の判定はなかったから記録としては「5」と言う数字しか残っていない。今の判定なら震度5強になるのだと思う。

死傷者数は、死者が52名、 負傷者は330名。

主な被害地域は、北海道道南地方と青森県である。

 

北海道から東北北部で揺れや津波の被害もあった。住宅被害は全壊673棟、半壊3,004棟、一部損壊15,697棟にのぼった。特に青森県は、死者・行方不明者48名、建物全壊646棟、半壊2,885棟、一部損壊14,705棟と被害が集中し、青森市や、八戸市十和田市むつ市・三沢市をはじめとする県東部に大きな被害をもたらした。

青森県内の被害が大きかった地域では、前日まで3日間の総雨量が100 - 200mmに及んでいたことから、地盤の含水量の増加が原因とみられる地すべり・山崩れ・がけ崩れ等の地盤崩壊が24箇所で発生しており、名川町立剣吉中学校では本震発生後の避難中に生徒約40名が校舎裏の山崩れに巻き込まれて生徒4名が犠牲となるなど、青森県内の死者・行方不明者のうち33名が土砂災害によるものであった。また、むつ市早掛沼では堤防が決壊・流出し周辺が冠水したのをはじめ、主に盛土構造の崩壊とみられる道路損壊375箇所、鉄道被害34箇所、堤防決壊34箇所が青森県内で発生した。

津波は地震からおよそ30分後、午前10時20分ごろから三陸沿岸を中心に襲来し、三陸沿岸の一部で3 ~ 5m、襟裳岬で3mを記録した。これにより、建物浸水529棟、船舶沈没・流出127隻の被害が発生、八戸港内ではタンカー損傷による燃料流出事故も生じたが、干潮時だったことが幸いし、また、昭和三陸地震チリ地震の津波を教訓とした施設整備等もあって、被害はそれほど大きくならなかった。

この地震により、十和田湖の名勝であった蝋燭岩が倒壊したり、南部鐵道が廃止に追い込まれることとなった。また、函館大学や三沢商業高等学校、八戸東高等学校、八戸工業高等専門学校むつ市役所庁舎の倒壊(圧壊)をはじめ昭和30年代後半から建てられ始めた比較的新しい鉄筋コンクリート造の公共建築物の被害が目立った。この地震を契機に、1971年には「建築基準法施行令」の改正及び「日本建築学会鐵筋コンクリート構造計算規準」の改定がなされている。

 

//// ここまでは、ウィキペディアから省略・加筆して転載した。

 

私が5歳、今で言えば幼稚園の年長さんの時に起きた地震である。

遊戯場で遊んでいたら、積み木ブロックがバラバラ倒れてビックリしたことを覚えている。私の場合、保育園だったから保母さんになると思うが、連れられて皆で近くの公園に避難した。また、この時の地震で函館大学の校舎が崩壊したことは後になって知った。

5歳の子供では、地震の揺れが収まってから公園に避難しても遊びに行ったようなものである、親が迎えに来たことと滑り台で遊んでいたこと以外は覚えていない。津波が来るような所ではなかったが、もし、津波の被害が出るようなところだった場合、園児を連れて高いところへ避難するというのは難しいことだと思う。不思議なことだが、地震では恐怖を感じる子供と、それを楽しむ子供がいる。私は、後者だったのかも知れない(万一の時は、逃げ遅れるタイプ)。

どうでも良いかもしれないが、通っていたのは函館亀田保育園、家からの距離は200メートル程度だった。今回、改めて調べてみたら今も同じ場所にあって少し驚いたが、また、懐かしくもあった。