takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

ジョージ スタイナー・1

 ご迷惑をお掛けしましたが、ご本人のお許しを得ましたので削除した『ヒトラーの弁明サンクリストバルへのA・Hの移送』の元の文書をリンク致します。

 お書きになった方は、早稲田大学文学部の岡田准教授です。トーマス カーライルに関しては日本でもトップクラスの研究家です。スタイナーは専門ではありませんが、英文学全般に精通しておられます。是非読んで下さい。

 また、英文学そのものにあまり興味がないという方は、こちらをご覧下さい。私の好きな文章です、これはエッセーですが恩師に対する愛情と尊敬の念に溢れたある種の名文だと思います。難しいことは何にも書いてありません。ぜひ、お読み下さい。

 なお、岡田准教授のサイトを探した時、見つからなかった理由も分かりました。私は、お名前の漢字を間違えたようです。「俊之輔」が正しいお名前でした。私が検索した「俊之介」は間違いです。お世話になった方の名前まで間違うのは恥ずかしい限りですが、サイトが見つからないからと言って無断で文章を拝借するのはもっと恥ずかしいことです。本当に申し訳ありませんでした。

 最後に、かな使いに関してご説明します。私は、普段個人的には(私生活の中では)「正かな遣ひ」(学問的には契沖假名遣ひ-けいちゅうかなづかひ)を使用しています。上記リンクの岡田准教授もそうです。岡田准教授は、大学で教鞭を執られている時も使用されています。私の場合は、技術士になった時、文部科学省の管轄の資格である技術士の名前を用いて文書を書くときはいわゆる「現代仮名遣い」を使用することが当たり前と言われて素直に引き下がりました。元々、エンジニアの多くはかな使いに興味を持っていません。議論は無駄ですし、偉い方を起こらせて資格剥奪になったら(それは無いと思いますが)損です。個人的に使用できればそれで良いと考え、現在はそのようにしています。

 ただし、国の文化、伝統、歴史と言うものを考える時、言葉とその表記はその根幹部分にあるものだと思います。よく、「保守派」の論客と呼ばれる人達が新聞雑誌に出ていますが、彼等は何を保守するのでしょうか?それが私には分からないのです。

 

 日本ではあまり知られていませんが、アメリカにジョージ スタイナーという英語圏では、大変高名な文芸評論家がいます。日本語版「Wikipedia」の、彼の項目では以下のように書かれています。

 

フランシス ジョージ スタイナー (Francis George Steiner、1929年4月23日 - )は、アメリカ・イギリスの作家で哲学者・文芸批評家。長年にわたり比較文学講座の教授を務めた。1940年、ユダヤ人迫害によりアメリカ合衆国に亡命。同年、アメリカ合衆国の市民権を取得している。

 

 デビュー作は「トルストイドストエフスキーか」中川敏訳-白水社(1959年)新版(2000年)ですが、その後50年に渡って文藝批評を続けています(最近は流石に活動していないようです)。出版した本は15冊、他に『「ニューヨーカー」のジョージ スタイナー』-工藤政司訳 近代文藝社(2012年)と言うロバート ボイヤーズが編集した28編の評論選集があります。

 

 スタイナーは、自らの批評家としての立場をこう考えます。批評家は、優れた芸術作品の中にある「思想の神話体系」、「混沌とした体験に秩序を与え、解釈を行おうとする果敢な精神的努力」について深い思索を巡らし、作家の作り上げた作品に対し「再創造の仕事」にたずさわり、読者との間に「仲介の労」をとらなければならない。もっと、簡単に言うと、優れた作品を見つけ「称賛」し、作品について深い思索をめぐらすことを批評家の責務とした訳です。

 そのため、デビュー作の「トルストイドストエフスキーか」でも、どちらが優れていると軍配を上げるのではなく2人を「3組の仮説、2組の根本的な存在論が対決して解決しない論議」を示す例、「西欧思想上の重大な分裂」を示す例として取りあげています。これも、簡単に言うと、こう考えて読むと「面白いよ」と紹介している訳です。「人間の運命を歴史的に時間の流れの中で見ていた」トルストイと、「真実にそむいてもキリストを敬愛し、絶対的理解に疑惑を抱き、神秘に加担」し、「人間の運命を同時代的にまた演劇的力感の躍動する一時的停止状態において見ていた」ドストエフスキーを対比的に論評しています。

ついでですから、私の好きな第1章の書き出しの部分を紹介します。

作品に惚れこまなくては文学批評などということはできるものではない。詩でも劇でも小説でもいいが、文学作品が私たちの想像力を捕える、その捕え方は明白だが同時にまた神秘なものだ。一冊の本を読み終わったとき、もはや私たちはその本を読む以前の自分ではないのである。

「もはや私たちはその本を読む以前の自分ではないのである」。格好いいですね、本を読むことで別な自分になる訳です。

 もっとも、全体を通じて内容は非常にハイレベルで深遠なものであり、聖書の知識が前提となっていますから、半端な気持ちで読むと100%間違いなく挫折します(私は、新版が出た11年前に2回目で登頂に成功しました)。しかし、トルストイドストエフスキーの主要作品を読み直し、聖書のガイドブック(コンビニで売っている500円ぐらいの本で良い)を読んでから挑むと、登頂に成功する可能性はぐっと高くなります。

 簡単で分りやすい本も良いのですが、たまにこんな本を読むと批評とは「かくあるべし」などと考えてしまって、朝の短い時間で本を取上げて紹介するのは嫌になる訳です(と、言ってスタイナーを紹介していますけど)。

 もし、スタイナーをお読みになるのであれば、一番読みやすいのは『ヒトラーの弁明 サンクリストバルへのA・Hの移送』(1979) 佐川愛子、大西哲訳・三交社(1992)です。内容としては、非常に濃いものですが小説ですからさらりと読むこともできます。それほど厚い本ではありません。この本については、明日ご紹介します。