takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

やはり忘れてはいけない「阪神淡路大震災」

 一日ずれましたが、やはり書き留めて置きましょう。

 阪神・淡路大震災は、平成7年(1995年)1月17日(火)に発生しました。地震そのものの名称は兵庫県南部地震です。
 地震の概要を説明しましょう。平成7年1月17日5時46分52秒、淡路島北部沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として、マグニチュード7.3の兵庫県南部地震が発生しました。近畿圏の広域(兵庫県を中心に、大阪府京都府も)が大きな被害を受けました。当時は、東日本大震災の前ですから、戦後では最大の被害となった地震でした。特に日本での都市型震災としては、大都市を直撃した昭和19年(1944年)の昭和東南海地震以来でした。
 地震による揺れは、阪神間および淡路島の一部に震度7の激震が適用されました。また、広範囲で揺れが観測され東は小名浜福島県いわき市)、西は長崎県佐世保市、北は新潟県新潟市、南は鹿児島県鹿児島市までの広い範囲で震度1以上の有感地震が観測されています。
 私は、震度5以上の地震を経験したことがありません。ただ、大宮の防災センターで人工的な震度7は経験しています。もちろん、立っていられないのですが、マシンの中ではいくら揺れたも恐怖はありません。どのくらいの揺れなのかが分るだけです。
 この地震では約6,400名の方が亡くなっています。その亡くなった方の80%相当、約5,000人は木造家屋が倒壊し、家屋の下敷きになって亡くなっています、そのほとんどは即死だったようです。特に1階で就寝中に圧死した人がほとんどです。
 2階建て木造住宅の場合、屋根瓦と2階の重みで1階の柱が折れて潰れることが多いため建物が倒壊し1階部分は空間が無くなってしまいます。逆に2階部分は建物が倒壊しても生存のスペースが残りやすく、死者は少なかったようです。
 また、死者の10%相当、約600人は「室内家具の転倒による圧死」と推定されています。死ぬことに変りはないかもしれませんが、遺体を検案した監察医のまとめでは、神戸市内の死者約2456人のうち、建物倒壊から約15分後までに亡くなった人が2221人と92%にも上り、圧死・窒息死で「即死」した人が大半を占めたようです。

 この地震は、地震大国である日本の大型建築物が地震に弱いことを露呈させる災害でした。本来なら、災害時にこそ頼りになるはずの大病院や鉄道の駅舎が壊滅的な打撃を受け救助活動の拠点となることができなかったのです。
 日本の建築基準法は、昭和56年(1981年)には大幅な建築基準法の改正が行われています。そのため、昭和57年(1982年)以降に建てられた建物は安全であると思われていました。しかし、残念ながらそれ以降に建設されたビル・マンションなども広範囲に渡って倒壊しています。正直、情けない話です。

 この地震の被害はおよそ2.5ヶ月テレビ、ラジオ、新聞、雑誌を賑わせました。しかし、世界を驚かせた3月20日の事件以降、マスコミの注目は一斉にその事件の方に移り、当時、戦後最大と言われた震災の様子は全国紙からは消えていったのです。