takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

エンジニアは、哲学の夢に魘(うな)される-5

 アルトゥル ショーペンハウアー(1788年2月~1860年9月)は、ドイツの哲学者です。日本では、ショーペンハウエルとも呼ばれますが、名前の綴りを英語風に読むかドイツ語風に読むかの違いです。主著は『意志と表象としての世界』です。1819年、31歳の時に出版されました。
 仏教精神そのものといえる思想と、当時としては、インド哲学の精髄を語り尽くした思想家であり、その哲学は多くの哲学者、作家に重要な影響を与えれいます。何しろ、御本人は「仏陀エックハルト、そしてこの私は、本質的には同じことを教えている」と述べていますから大変なものです。日本人なら、自分を仏陀と比較するようなことは言わないでしょう。
 ショーペンハウアーの残した言葉で私が好きなのは「紙上に書かれた思想は、砂上に残った歩行者の足跡に過ぎない。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。」です。

 さて、主著である「意思と表象としての世界」ですが、4部構成の大著です。その構成は以下の通り。

第1部「表象としての世界の第一考察」
第2部「意志としての世界の第一考察」
第3部「表象としての世界の第二考察」
第4部「意志としての世界の第二考察」

 第1部と第2部は同じタイトルで、タイトルに気を使わないのは私も同じですが、実はこの本どの部分から読んでもその主張は分ります。ようするに、続き物ではなく各部が独立した読み物になっています。また、ショーペンハウアーは、生涯を通じてこの本を修正して出版しています。20代後半の時に、第1部を博士論文として書いたのですがその部分は序論としてとらえ主張を続けたのでしょう。
 彼は大学で講義をするようになってから、ヘーゲルと同じ時間帯に講義を行いました。しかし、学生は皆ヘーゲルの講義を聴きに行って誰もショーペンハウアーの講義を聴かなかったのです(ヘーゲルより18歳年下です)。
 彼の思想は、暗い厭世主義と言われていますが、本を読むと分るとおり別に暗い人ではありません。もっとも、仏教の思想に影響されていますから、「イケイケ・ドンドン的」なアメリカ人から見たら暗いかもしれません。また、ヘーゲルへの恨み辛みを延々と書いていますからその辺を読んで「暗い奴だ」と思われたのかもしれません。
 ただし、ショーペンハウアーを理解するには仏教よりもカントを読む方が先です。そもそもこの時代(150年前)にヨーロッパで仏教の文献を読むことはほとんど出来なかったはずであり、彼の仏教理解は怪しいものがあります。ですから、やはり西欧哲学の系譜をたどりカントから読む必要があるのです。
 カントは我われが感覚で知覚できる現象の世界と我われの知覚から独立して存在する、水遠の実在を持つ「物自体」が存在すると考えました。我われが感覚による制約を受けているのだとすれば、決して「世界そのもの」を実際に知ることはできません。しかし、ショーベンハウアーはこの点について認めながら、理性によって真の実在(「ヌーメノン」)を理解できると考えたのです。

註:ヌーメノンとは、「考えられたもの」「仮想物」を意味する語です。カントが良く使用した言葉ですが、プラトンイデアに相当します。

 五感の制約があるから世界を実際に知ることはできないが、理性によって真の実在(「ヌーメノン」)を理解できると言われても頭の中が「?」で埋まってしまいます。技術屋である私も「この故障の原因を知ることはできないが、理性の力によってネーメノンを理解できる」と言ってみたいものです。技術士口答試験で試験委員に言ったら怒られるでしょう。
 彼の主張を一言で言えば、「天才は意志の盲目的な衝動(自我)に従って生きるのを避け、自分を超えたところにある神の意志と調和しようと試みる」。と言うことです。