takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

アトミック パワー・解き放たれた力-6

 マンハッタン計画を一言で言うと、第二次世界大戦中、ドイツの原爆開発に焦ったアメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾開発・製造のために、科学者・技術者を総動員した計画です。ご承知の通り、計画は成功し原子爆弾が製造されました。さらに、1945年7月16日世界で初めて原爆実験(トリニティ実験)が実施されます。この時すでにドイツは、敗戦し欧州での戦争は終わっていたのですから実験だけで止めればよいのに、やはり作ったものは使ってみたかったのでしょう。広島に1945年8月6日・長崎には8月9日と、実験成功から3週間ほどで人間に対して投下しています。合計数十万人が犠牲になり、また戦争後の冷戦構造を生み出すきっかけにもなっています。

 マンハッタン計画の科学部門のリーダーは何度も書きましたがロバート オッペンハイマーです。彼は、大規模な計画を効率的に運営するために現在のプロジェクト管理にも使用されているタイムスケジュール、あるいは管理工学が考案されました。この、プロジェクト管理の手法は後のアポロ計画などにも使用されています。加えて、現在のプロジェクトマネジメント手法の原点と言っても良いと思います。

 実は、日本でも第二次世界大戦中、陸軍によって原爆開発は行われていました。しかも、わざわざ効率を下げる2通りの研究です。それは、大日本帝国陸軍「ニ号研究」(理化学研究所仁科芳雄の頭文字より)と大日本帝国海軍の「F研究」(核分裂を意味するFissionの頭文字より)と呼ばれています。しかし、日本の原爆開発は終戦間際の最も進んだところでも結局は基礎段階を出ていません。そもそも、当時は岡山県鳥取県の県境に当たる人形峠にウラン鉱脈があることは知られていませんでした。そのため、1944年から朝鮮半島満洲、モンゴル、新疆(しんきょう)の地でもウラン鉱山の探索が行われましたが、成果はなかったようです。当時の日本陸軍のことですから、気合と根性で探し回ったと思いますが、無いものは無いのです。もちろん、科学的な管理工学手法も用いられていません。

 アメリカに戻ります、計画の名は、当初の本部がニューヨーク・マンハッタンに置かれていたからです。軍は作戦の名称を付ける時、工区名を付けるのが一般的でした。そのやり方に倣って「マンハッタン・プロジェクト」としたようです。おそらく、軍側の最高責任者レズリー グローヴスが付けた名前なのでしょう。

 年表のところでも述べましたが、」1942年10月、ルーズベルトはアメリカ国防研究委員会(NDRC)議長のヴァネヴァー ブッシュと副大統領ヘンリー ウォレスとのミーティングで、核兵器開発プロジェクトを承認しました。その時、ルーズベルトはプロジェクトの管轄を、海軍ではなく大規模なプラント建設に慣れている陸軍に行わせるように指示しています。また、ルーズベルトはイギリスとの協力体制についても同意し、10月11日にはイギリスの首相ウィンストン チャーチルに書簡を送っています。

 悪魔の兵器の開発が始まります。