takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

イタリアのセベソで発生したダイオキシンの放出で現在も後遺症

1976年(昭和51年)7月10日、イタリアミラノ郊外の化学工場で、猛毒物質であるダイオキシンの放出事故が起こった。バッチ作業の終了時に、運転指示書を無視した条件で停止した。そのため、温度上昇と暴走反応によるダイオキシンの大量生成、さらに破裂板が作動し、ダイオキシンを含む内容物が大気に拡散した。1800ヘクタールの土壌が汚染され、22万人が被災し、後遺症に苦しんだ。研究者や工場には、暴走反応やダイオキシンの発生ついて正しい知識がなかった。そのため、高濃度ダイオキシンの存在が分かっても、再確認するまで行政当局に連絡しなかった。被害を大きくした原因はそこにある。

後にセベソ指令やバーゼル条約といった安全対策の基本を打ち出すことになった。化学産業では人類最大の事故の一つである。

事象

イタリアミラノ郊外の化学工場においてバッチ作業により2,4,5-トリクロロフェノールを製造する工程で、バッチ作業の終了法を運転指示書とは異なった方法で停止した。そのため反応槽を兼ねた蒸留槽で、暴走反応が起こりダイオキシンを大量に生成した。暴走反応により、破裂板が作動し、ダイオキシンを含む反応生成物を放散した。ダイオキシンを含む反応生成物は風に乗って広範囲に拡がり、おりからの雨により地上に落下したため、多数のダイオキシン中毒者や後遺症に悩む人を生んだ。それと同時に甚大な土壌汚染を引き起こした。

 

//// ここまでは、失敗知識データベースから省略・加筆して転載した。

 

直接の死者はゼロである、ダイオキシンが騒がれているほどの猛毒ではないからなのかも知れない。しかし、1977年(翌年)4~6月の妊婦の流産率が34%と異常に高い。自然流産の確率はどこの国でも10%~12%であることを考えると、これは、被害死者数として数えなければならないと思う。しかし、逆に奇形児の発症はゼロだった。

また、セベソはイタリア北部、スイスとの国境近くにある小さな町だが人口は2万人程度である。被害が小さかったのは、元々人がいなかったからなのかも知れない。22万人が被災したというのは、発表が遅れ周辺の都市までダイオキシンが拡散したからである。

40年近く昔の話しだから仕方がなかったのかも知れないが、危険物質を扱うにはあまりにお粗末な管理である。なにしろ、使用している工場の人達が危険度を認識していなかった。これでは、被害は拡大するはずである。

この事故の後、セベソ指令やバーゼル条約が制定され化学物質管理は厳しく厳重なものとなった(EUは厳しくなり過ぎて少々困っている)。