takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

小説という伝え方-2

19世紀ロシアにドストエフスキーという作家がいます。

f:id:takumi296:20170810011606j:plain

以前、会社員だった頃偶然この名前を口にしたら、「それ誰ですか?」と若い社員に言われて驚いたことがありました。世界的な大文豪だって知らない人もいるとは思いますが、まあ一生に1回作品のいくつかは読んだ方が良いだろうと思います。そのときも多分そんなことを言ったと記憶しています。

優れた作家と凡庸な作家は何が違うのでしょうか?

私は、作品のテーマ(主題)の絞り込みだと思っています。こう書くと、日頃技術士試験の解答を添削するときに私が言っているのと同じことだと考える人もいるでしょう。

ドストエフスキーは大文豪、優れた作家だと言って良いと思います。そのドストエフスキーの作品は全て同じテーマを基に書かれていると言って良いと思います。ようするに、文豪は、一つのテーマを多彩に表現して作品を書くことができる。それが凡庸な作家との違いではないかと思います。

もっと、簡単に言うと、私のブログはテーマの絞り込みが全くできていません。私が凡庸な書き手である証拠です。

夏目漱石も、「三四郎」以降は、一貫して同じテーマを追求していると思います(道草は少し違うかもしれませんが)。森鴎外は当初、「舞姫」とか「三四郎」を真似た「青年」とか書いていますが、「興津弥五右衛門の遺書」以降は、一貫したテーマの歴史小説になっています。作家として成長したのだと思います。

ドストエフスキーに話を戻します。彼が追求したのはおそらく「神の愛は存在するか?」です。実生活では、1846年に「貧しき人々」を書いた後、シベリアに流刑になってペテルブルグに戻るまでに理想主義者的な社会主義者からキリスト教人道主義者へと思想的変化があったようです。

しかし、「貧しき人々」を何度読んでもあの作品の中では「宗教的な愛」が存在するのかを追求しています。「カラマーゾフの兄弟」だってあの膨大な量の文章で追求したかったことは「神の愛が存在するのか?」と言うことでしょう。

と色々言いましたが、ドストエフスキーが好きか?と言われるとあの独特の「くどさ」が好きになれないのです。もちろん、作品は全て読んでいます。2回読んだ作品もあります。

有名な「罪と罰」の第1章でラスコーリニコフマルメラードフと居酒屋で話すシーンがありますよね?あのとき、マルメラードフは延々と自分の人生に対する愚痴を語るのですが、ラスコーリニコフをそれを全部聞いています。初めて会った酔っ払いの愚痴をずっと聞き続けることできますか?

正直、私にはできませんし、こんなことあり得ないだろうと思います。つまり、あの有名な会話シーンを書くことができないのです。

 

もう一つ、ハンス・ホルバインの作品に「棺の中のイエス」と言う絵があります。

スイスのバーゼルにある公立美術館で展示されています。

f:id:takumi296:20170810012524j:plain

 

教科書なんかで見た方はいると思います。

ドストエフスキーは、この絵を「観て」泣き崩れたらしいのですが、私は崩れるどころか涙も出ませんでした。おじさんだからではありません。これをバーゼルで「見た」のはまだ20代の頃です。感受性は人並みに豊かだったはずです。

ドストエフスキーは、この絵を観て心が動いたのですが、私はこの絵を見て「上手い」と思っただけなのです。

絵は本当に上手いと思いました。しかし、この絵を見て泣くにはキリストに対する信仰心がないと気持ちが動きません。涙腺も緩みません。

どうなるのか分からないのですが、現在、SF小説をやっと書き始めました。楽しいです。プロではないから楽しいのかもしれません。経過はときどきここで報告すると思います。