takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

少し功利的に寄り道

はてなブログのブロガーfktackさんがご自身のブログ


功利主義は自殺を肯定するか - 意味をあたえるの中でこのブログの記事「トロッコ問題」について言及して下さいました。そこで、トリアージ問題に入る前にもう少し功利主義について書いてみます。

 先ず、「功利主義」と言うあまり良い響きのしない言葉ですが、日本語の語感を気にする人は「公益主義」あるいは「大福主義」という呼び方を提唱しています。「大福主義」では、食べ物を連想しますから、無理矢理呼び方を変えるのであれば「公益主義」の方が良さそうです。

 今回、このブログではこれまで通り「功利主義」と呼びますが、数年後には異なる名称になっているかもしれません。大学を受験する予定の高校生諸君は気をつけて下さい。

 その「功利主義」ですが、コトバンクでは以下のように解説されています。二つの辞典からまとめての引用です。

 

功利主義 こうりしゅぎ utilitarianism


1.ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

19世紀,イギリスで盛んになった倫理,政治,社会思想。広義には幸福主義,快楽主義と共通する点をもち,R.カンバーランド,F.ハチソン,T.ホッブズ,J.ロック,D.ヒュームなどにもその傾向がみられるが,狭義には J.ベンサムやミル父子などに代表される経験論的功利主義をさし,最大多数の最大幸福をスローガンとする。


2.日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

行為の目的、行為の義務、正邪の基準を、社会の成員の「最大多数の最大幸福」に求める倫理、法、政治上の立場。イギリス思想に著しい考えで、古典経験論の創始者F・ベーコンにもすでにその傾向はみられる。また、ロック、ヒューム、古典経済学派、神学者たち、R・カンバーランドやF・ハチソンらのような17、18世紀の一群の道徳思想家などについても同様の傾向がみられる。とくにハチソンには「最大多数の最大幸福」とほぼ同じ句がみられる。
 しかし、この立場を単純明快に定式化、組織化したのはJ・ベンサムで、それはミル父子により継承、発展させられた。彼らは幸福と快楽を同一視したが、ベンサムが七つの基準による快楽の計量可能性と快楽計算の構想を唱える「量的快楽主義」を主張したのに対し、J・S・ミルは快楽に質的な差を認めて「質的快楽主義」へと変わる。さらに、ベンサムは外的制裁を重んじたが、ミルは内面的な動機、良心、自己陶冶(とうや)の重要性も認めて、心情道徳、完成説への傾斜を示した。彼らと同時代の急進主義者たちにも功利主義の傾向がみられるが、以後もスペンサーやスティーブンらの進化論的功利主義、シジウィックの倫理、G・E・ムーアの特異な耽美(たんび)的功利主義などがある。さらに、現代イギリス日常言語学派の、メタ倫理学の暗黙の規範意識や、広くアングロ・アメリカンの道徳思想には、その多様な変形がうかがわれる。
 功利主義に内在する問題として、たとえば次の点を指摘できよう。

  1. 最大多数の至福が目的である以上、功利主義は目的論の一形態として目的論一般のもつ問題に直面する。義務論のような反目的論の立場は、たとえば約束の履行などの根拠が、単に社会全体の至福に及ぼす結果だけでなく、正義、社会的公正などの、各成員に対する平等の配慮のような別の原理に基づくと主張する。
  2. かりに功利的目的の達成が義務の一つだとしても、倫理的に目的は善であるべきだから、功利の原則の根底には善行の義務の原則が予想されよう。しかも、ベンサム、ミル父子は、善を幸福と、幸福を快楽と同一視したが、その必然性はなく、理論、現実の両面で多様な善の内容が考えられる。
  3. 量的、質的快楽主義の対照から明らかなように、目的評価の基準の不明確さは、快楽主義的功利主義の基礎を不安定にし、また量的測定の基準だけでは、功利主義を経済的価値のような道徳外の価値に従属させるおそれがある。

[杖下隆英]

 (強調は、匠です)

 

「最大多数の最大幸福」を目指す。ものすごく単純に言えば、それが「功利主義」です。ですから、結果重視の帰結主義、5人死ぬより1人死ぬ方が良いと答えは簡単です。

 しかし、「トロッコ問題」、「臓器くじ」、「冷たい方程式」と、ここまで取り上げてきた問題を考えれば分るとおり「功利主義」の考え方だけでは納得できないところが多々あります。特に自分の身近な問題になればなるほど人間は「功利主義」的ではなくなるようです。逆に、途上国と先進国における貧富の差、あるいは東日本大震災の被害者救済のような問題を考える時、最大多数の最大の幸福を目指して皆んなで我慢したり、節約したり助け合ったりするようです。

続きます。