takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

倫理問題を考えよう:カンビュセスの籤-3

 この物語の主人公エステルは、種としての人類を存続させることは個人の命よりも大切なことだと信じています。ですから、くじ引きで負けた人間を食料にする、その食料を食べて生き続けることに疑問を感じていないようです。

 食料を大切にするシーンはありますが、それは一度に多く食べると存在できる時間が短くなってしまうからであり、人間を原料にした食料だから大切に食べるという訳ではないようです。もっとも、そこまで詳しい描写はありません。ですから、読者は想像の余地を大きく与えられます。

 この物語では、種の保存は個人の命よりも尊いと信じる少女の恐ろしさを表現しているような気もします。エステルはどこか人間離れしています。逆にサルクは人間的です。エステルは、最後に自分を食料にする機械の扱い方を淡々とサルクに説明しますが、見方を変えれば身の毛のよだつ話です。そこに、自己犠牲の尊さはありません。もし、くじ引きに関して、エステルが嘘をついてサルクを助け自分を犠牲にしたのだとしても、そこに悩みも苦しみもないのだとすればエステルは化け物です。

 ところで、人を食料にして食べる話は別として、生きる、生き続けること自体に意味はあるでしょうか。誤解を招く言い方ですが、私は無いと思っています。生きる意味は、自分で作り出すものだと信じているからです。

 以前、動物と人間の違い、あるいはコンピュータと人間の違いについて言及したことがあります。動物も色々調査・研究してみると「道具を使う」、「鏡に映った自分を認識する」、「生きるために働く」など昔は人間の領域と言われていた行動を取っていることが分ってきました。言い換えると、人間だけの領域と思われていた部分がどんどん犯されているのです。しかし、生きる意味を自ら問うのは人間だけです。また、今のところどんなコンピュータも自分の存在する意味を問うということはしません。これをやると、自己言及の矛盾に入り込むことになるからです。また、コンピュータと言うものが論理回路で作られる以上、存在する意味を自ら問う回路を持つことはないと思っています。

 話を戻しましょう。「カンビュセスの籤」は、元々の狙いがこうなったら怖いという「恐怖の物語」なのか、物語が書かれた1977年当時流行った人類滅亡に対する風刺なのかハッキリしません。いつの間にか、倫理問題として取り上げられる物語になってしまいました。作者の意図は違っていたのではないかと思います。

 

 倫理問題を考えようも、だいぶ長くなりました。次は、最後の問題「トリアージ問題」に入ります。

 あなたは、交通事故で足を複雑骨折しました。命に別状は無いものの途轍もない痛みです。また、治療が遅れると、可能性は低いとはいえ片足が壊死することも考えられます。しかし、病院に搬送されてみると近くの工場で爆発事故があり、生死を彷徨う怪我人が病院中に溢れかえっています。あなたは、医者や看護師に「命に別状はありません、あなたの治療は後回しにします」と言われます。その時、「はい、分りました」と言いますか。それが、トリアージ問題です。