takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

エンジニアは、哲学の夢に魘(うな)される-8

 アーレントは人間の基本的な活動力を、労働、仕事、活動の三つに区分しています。

「労働はあらゆる人間が経験する、生き、成長し、最後には衰えるという生物学的過程にかかわる活動力であり、基本的には生命の維持である」あるいは、「労働の人間的条件は生命それ自体である」とアーレントは言っています。

「仕事は自然な世界で人間が行なう非自然的な活動力である」言い換えると、この世界を超えて永遠に残るものを作り出して、「死すべき生命の空しさと人間的時間のはかない性格に一定の永続性と耐久性」を与えるものであると定義しています。

「活動は事物や物質を必要としない唯一の活動力であり、したがって人間の本質である。活動もまた、自然の世界を超越している」。また、こうも言っています、「地球上に生き世界に住むのが一人の人間「man」ではなく、多数の人間「men」である」からだ。
 ここは、分りにくいのですが、アーレントが言わんとしているのは、人間が他人から評価される行動をしたいと願う、共同体に生きる政治的動物であるということなのです。

 もう少し読みましょう。今度は、長く引用します。

 私が主張している労働と仕事の区別は、普通に認められているようなものではない。なるほど、この主張を裏書きする現象的な証拠は、非常に目につくものだから無視できない。にもかかわらず、やはり実際は、近代以前の政治思想の伝統においても、また近代の労働理論の巨大な体系においても、この私の主張を支持するものはほとんどない。もちろん、私の主張を裏づける見解は、多少あることはある。しかし、それらの見解は、それを述べた著作家たちの理論でも十分に展開されていない。ところが、この歴史的証拠の少なさと対照的に、非常に明瞭で覆すことのできない証拠が一つある。すなわち、古代近代を問わず、すべてのヨーロッパ語は、私たちが同一の活動力と信じているものを意味するのに、語源的に無関係な二つの言葉をもっているという単純な事実がそれである。しかも、この二つの言葉は、ずっと同義語として使われてきたにもかかわらず、いまだに二つの言葉としてそのまま残っているのである。
 たとえば、ジョン ロックは、仕事をする手と労働する肉体とを区別したが、それは古代ギリシア人が行なった区別と多少似ている。

 まだ、分りにくいですね。これは翻訳のせいだと言っても良いと思います。「労働」「仕事」「活動」の使い方が、私達の使い方とことなるのです。むしろこう言い換えたらどうでしょう。

「労働」⇒「仕事」(生活費を稼ぐ活動)
「仕事」⇒「生産」(有形無形のものを作り出す活動)
「活動」⇒「奉仕」(共同体のことを考えた利他的活動)

 私は、この方が違和感が少ないような気がします。

 再び引用します。

 生物学者や社会学者は過去三十年間に、人間はこれまで考えられていた以上に脳の神経系や遺伝子や環境によって決定されているという結論に達した。この結論はアーレントの活動と決断の理論に冷水を浴びせるように見える。
 しかし、歴史は最終的には数えきれないほどの個々の決断の集積であるというアーレント歴史観からすれば、人間の歴史にはある種の必然性が含まれていると(ヘーゲルマルクスのように)主張するのは間違っているだろう。
 むしろ、アーレントに大きな影響を与えた1人であるマルティン ハイデガーが強調しているように、重要なのは個人である。アーレントにとって歴史とは、人びとが予想を超えて成し遂げた業績の記録である。人びとは、しばしば本人ですらまつたく予想していなかった驚くべきことをするものなのだ。
『人間の条件』の最終章でアーレントが認めているように、「賃仕事人の社会」と化したわれわれの社会では、人びとは個別性を放棄することが可能になり、生きること、真の意味で思考すること、そして自分のために活動することから生じる問題に真っ向から立ち向かう代わりに、ただの「機能」であるかのようにふるまうことができるようになった。

 アーレントの言う「労働」「仕事」「活動」の区別を把握して理解するのは簡単ではありません。また、アーレントが生きていた時代のドグマを我々後の時代の人間は十分に理解していません。当時、カール マルクスの影響力は大変なものだったと思います。
 それでもなお、アーレントの本から一つのメッセージを取り出すと、「すべての人は世界を変革する可能性を持って誕生する」と言うことでしょう。

 書き忘れましたが、引用は全て『人間の条件』:筑摩書房・志水速雄訳です。また、志水先生は、52歳の若さで亡くなっています。上京して間もない頃、1度だけ講演を聴いたことがあります。