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takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

森鴎外も読もう-舞姫

 森鴎外は、文久2年(1862)生まれ、夏目漱石は慶応3年(1867)生まれですから5歳年上です。しかし、「舞姫」の発表は明治23年(1890)鴎外27歳の時であり、明治38年(1905)38歳で「吾輩は猫である」を発表した漱石よりもだいぶ早熟です。しかも、鴎外は軍医としての仕事をこなしながら作家活動を並行して進めていますから、活動量では漱石を遥かに凌ぎます。また、22歳でドイツへ留学し26歳で帰国していますが、その間、ナウマン象の発見者ナウマンの演説(日本に対する偏見的な見方)に対してドイツ語で反論しています。英文学の何たるかが分からずノイローゼになった夏目漱石とはこの辺が大きく異なります。
 ドイツばかりではなく、日本でも鴎外は論争家としても知られています。「舞姫」は1月に「国民乃友」という雑誌に掲載されたのですが、直後の2月~5月にかけて石橋忍月といわゆる「舞姫論争」を広げています。
 石橋忍月は当時帝国大学法科大学(現在の東大法学部)在学中でした。彼は、「気取半之丞」と言う筆名で「舞姫」を論じ、主人公太田が意志薄弱であることなどを指摘し批判しています。これに対し鴎外は「相沢」を筆名に使い、「気取半之丞に与ふる書」で応戦しました。その後も数回論争が行われたのですが、忍月が筆を収めて収束します。この論争が最初の本格的な近代文学論争だと言われています。しかし、小説の中に出てくる主人公が意志薄弱だからと言ってだから何だとも言える訳で、論争そのものには無理があるようです。と言っても、この鴎外との論争によって、石橋忍月の名声は高くなったようです。忍月は、後に弁護士、政治家としても活躍しますが、文芸評論家の山本健吉氏は忍月の息子であり三男です。
 
 さて、「舞姫」です。日本の近代文学はこの「舞姫」と二葉亭四迷の「浮雲」(明治20年発表)によって始まったと言って良いと思います。昔は、高校の国語の教科書に掲載されていましたが、今はどうなのでしょう?誰かご存知の方がいらっしゃいましたら教えて下さい。

 

 あらすじ

 法科大学を卒業した秀才太田豊太郎は、某省に出仕して官長の認めるところとなり、ベルリンに留学することになります。自由な欧州の大学の風に触れること三年、今まで奥深く潜んでいた本当の自分が表われ、豊太郎の近代的自我は覚醒します。
 純粋な心を持つ豊太郎は、留学生仲間から雌れてただ一人ベルリンの市街を歩き、ヨーロッパ文化の中に自由に浸ります。豊太郎は、偶然にも美貌の舞姫エリスと会い、父の葬を営むこともできず、ヴィクトリヤ座の座頭のものとなるか醜業に就くかの境遇にあることを知ります。豊太郎は、憐憫の情をおさえられずエリスの窮境を救います。二人は、その後愛し合うようになりますが、仲間の裏切りに合い、豊太郎は職を失います。
 ほどなく、エリスは妊娠するのですが、生活は不安定なままです。しかし、天方伯に従ってドイツに来た親友相沢謙吉の努力で新聞社の通信員の職に就き貧しいながらも楽しい生活を送ることになります。
 明治21年の冬、豊太郎は、つわりに悩むエリスを見ながら将米の不安を覚え、暗い気持に陥っていました。相沢の手紙が届き、相沢に会った豊太郎は、翻訳の仕事を頼まれるとともにエリスと別れて帰国し天方伯にすがって立身出世の道につけと勧められます。語学の才能を買われた豊太郎は、天方伯のロシア行に随行して信任を得ます。
 このまま、日本から忘れ去られてエリスと暮らすのか、日本へ帰るのかで悩むのですが相沢の勧めを断り切れず帰国を承諾します。豊太郎は、エリスを裏切る思いに錯乱して病床に倒れるのですが、意識が戻ったとき襁褓(むつき)をを見て泣くエリスを見ます。豊太郎を看病するエリスに相沢が豊太郎帰国の決意を告げ、エリスは卒倒していたのです。鴎外は小説の最後をこう結んでいます「鳴呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり。」

 

 後に、エリスが鴎外を訪ねて日本まで来た話は有名です。どこまでが、小説でどこまでが実話なのか私は分かりません。小説の内容そのものも、「深みのある作品とは言えない」と評する人も多いようです。しかし、「舞姫」が文語体の文章とあいまって明治時代を代表する格調高い文学作品であることは間違いないと思います。高校時代の話ですが、私は、何度も繰り返し「舞姫」を読んで、最初の数ページは暗唱できました。30年以上経った今でも、半分くらい覚えています。