takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

ロマン派の巨匠: ヴイクトル ユゴー

 昨日は、フランス文学の衰退と書きましたが、文学全体が衰退している訳でその中でもフランス文学はかつての全盛時代と比較すると特に魅力が無くなったと言えるでしょう。 

 先ず、3人の作家、ユゴー、ロラン、プルーストを三日に分けてご紹介します。その後、それぞれの代表作を1~2点づつ紹介しようと思います。

 年代順に古い方から書きますので、今回はユゴーです。

 

 ヴイクトル ユゴー:Victor Hugo (1802-85)は、詩人・劇作家・小説家であり亡くなった時は、国葬で送られています。今でも、人気がありますがロマン派最大の作家と言ってよいと思います。日本では、もちろん「レ ミゼラブル」の作者として早くから知られていました。

 

 何よりも、ユゴー功績は近代の文学概念を形成したロマン主義の運動の栄光を,若き日のユゴーがその作品によって10年以上支えたととが、重要です。この決意を14歳でノートに書きつけた少年は,ナポレオン軍の将軍の第3子としてプザンソンで生まれ,父の任地イタリヤとスペインを知ったあと、パリで母と兄とともに幸福な少年期を過ごしました。

 

 軍人にしようという父の意志に反して、1819年、17歳の彼は兄とともに雑誌「コンセルヴァトゥール リテレール」を創刊します。翌年、彼がラマルチーヌの『瞑想詩集』の出現に敬意を表したのはこの雑誌上でした。神童とうたわれ、王党派的感情の詩によって賞を得たことのある彼は、20歳で著わした『オード集』(1822) では,すでに古典的な作詩法を完全に身につけていました。

 

 ロマン派が活躍した頃は、まだ小説の時代ではありません。文学の最大のジャンルは、16世紀以来演劇でした。1827年自由主義の傾向を示した彼は、〈グロープ〉誌のロマン派的な自由主義者を仲間に入れ活動を活発にして行きます。

 

 しかし、1843年、叙事詩的な意図を持つ新作劇『城主』Burgravesはやじり倒されて失敗に終わります。ロマン派の仲間の才能ある人たちはそれぞれ固有の道を見いだしていたし、活動を初めて15年にして早くもロマン派の紋切り型は一般の人達から飽きられていたのです。1月後、 観客はポンサールの凡庸な古典派風の劇に拍手しています。「レ ミゼラブル」にもその傾向はありますが、ロマン派の作品はどれも大げさな脚色があり、そこが飽きられる原因にもなっていたようです。また、この年愛娘のレオポルデォヌが新婚早々事故で溺死しています。二重の痛手を受けたユゴーは以後10年間、作品を公表していません。一般に、『城主』の失敗をロマン派の時代の終わりとしています。

 

 共和左派として亡命していた彼は, 1870年ナポレオン3世の没落とともにパリに帰り、 熱狂的な歓迎を受けます。コミューヌのパリ防衛と血ぬられた敗北とに立ち会うことになるのですが、その後,議員として和解の精神を説き歩きます。政治的立場は変転しましたが、人道主義的に民衆のためを思うのは変わりませんでした。その後も、創作は続きますが、83年に妻ジュリエットに先立れたあと2年で世を去ります。

 

 また、ユゴーはいかにもロマン派の巨匠らしくこんな名言を残しています。これを読んで「青臭い」と感じる人は既に心が擦れているかもしれません。

 

友よ、逆境にあるときは、つねに、こう叫びなさい。「希望がある、希望がある、まだ希望がある」と。

 

小さな悲しみには忍耐を持って立ち向かい、大きな悲しみには勇気を持って立ち向かいなさい。

 

不幸に陥らない秘訣は、人を愛して、働くことである。

 

夢、これ以外に将来を作りだすものはない。

 

生きている者とは、闘っている者だ。運命の高い険しい峰をよじ登る者のことだ。