takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

STAP細胞と科学の歴史-N線

 ルネ ブロンドロ(1849~1930)は、N線の発見者 という名誉とはいえないような名誉をもっています。ブロンドロはフランスのナンシー大学(現在もソルボンヌと並ぶ一流大学)の研究者で、傑出した物理学者であり、1800年代後半には数々のすぐれた物理学上の業績を上げていました。決して、怪しい二流学者ではありません。

 

 1800年代後半から1900年代前半にかかる時期は、物理学にとって興奮に満ちた期間でした。1895年レントゲンによってX線が発見され、その後の数年聞にα、β、γ線といった、さまざまな種類の放射線が続々と発見されていた時です。

 

 ブロンドロは、発見した放射線に自身が勤務するナンシー大学にちなんで「N線」と命名しました。 N線の発見を公表した1903年当時、物理学者たちは新しい型の放射線を発見するための心の準備ができていた時だったのです。言い換えると、時代の雰囲気が、新しい放射線の登場を待っていた時だったのです(ここが、今回と似ています、iPS細胞に次ぐ日本人学者の再生医療分野での大発見です)。

 

 1903年の論文でブロンドロが報告したN線の特性の一つは、電気スパークの輝きを増大させるというものでした。ブロンドロは、N線を検出する際、スパークの明るさを自分の目で主観的に測定していたのです(この辺りで怪しくなりますね)。明るさの客観的な測定をするため、ほかの装置が用いられるようなことはありませんでした。しかし、ブロンドロは定評ある物理学者であったため、ひとたびN線が公表されるや、ほかの物理学者たちはこぞってその研究に走ったのです(権威に追従するのは古今東西同じです)。公表直後の数年間、堰を切ったように膨大な論文が提出されました。その大部分はフランスの大学の実験室からのもので、どれもN線の存在を確認し、新しい特性をさらにつけ加えるものでした。

 

 当然のとながら、ブロンドロの研究室が一番進んでいました。また、その時までに、彼はN線の存在を決定する新しい検出方法を得ていたのです。それは、N線を照射すると輝きを増すような化学物質を塗った蛍光板を使用するというものでした。しかし、この時もまた、輝きの程度はまったく主観的に目視確認でした。しかも、実験者には「蛍光板を直接見てはならない、眼の隅から横目で見なさい」と、ブロンドロは、はばかることなく言っていたそうです。

 

 その後研究が進むにつれ、太陽や炎などの白熱物体はみなN線の発生源であるとがわかってきました。オーギユスト シャルパンティエというフランスの研究者などは、人間の神経系からN線が放出されていると言いだしたのですが、これすらもブロンドロの実験室では即座に「確認・確証」 されているのです。さらに、そうした神経系の一部が活性状態にあると、N線の放出量は増えるとされました。

 

 しかし、ないものはないのです。1904年には、フランス以外の国の科学者から反論が増えてきました。N線擁護派にとって致命的となったのは、フランス以外の国の物理学者がブロンドロの実験を再現できなかったからです。主観的ではなく客観的に明るさの測定がなされるようになると、そうした再現の失敗は一層目立つようになりました。ブロンドロが最初の発表をして以来、数年の聞に多くの再現実験が失敗に終わった顛末は詳細な記録が残っています。

 

 その中で、N線の存在を否定するもっとも強力な証拠は、やはり1904年に得られました。アメリカの物理学者ロパート W ウッドが、ブロンドロの実験の真否を自分の目で確かめるため、ブロンドロの実験室を訪れた時のことです。

 

 ウッドには風変わりな一面があって、物理学以外のことによく首を突っ込んでいました。ウッドが好んでしたととの一つに、心霊術を行う霊媒のいかさまを暴露することがあったのです。その経験が、ブロンドロのN線実験を検証する際に大いに生かされたようです。ブロンドロは、鉛がN線を通さないととをつきとめていました。ウッドがやブロンドロの実験室でN線効果の実演を観察したととろ、N線の実在の証拠としている明るさの変化はやブロンドロの想像力の産物であると結論しました。それは、N線の存在を証明したいという彼の願望がそうさせたのだと。N線実験は照明を暗くした実験室で行う必要がありました。その放射線の存在による明るさの変化を観察しやすくするためです。ウッドはこの暗がりを利用し、明るさの変化の測定が彼の信念の産物であって、N線の有無に関係のないものであるか、どうかを試してやろうと考えました。ある実験で、ウッドはN線源と蛍光板の間に鉛板を挿入してN線を遮断するという荒業を行います。もちろん、ブロンドロには内緒です。ウッドはほんの少し、しかし決定的な変更をその実験に加えました。彼はブロンドロに鉛板がN線を遮断していない時に鉛板を挿入したと伝え、遮断している時には逆にはずしていると教えたのです。もし本当にN線があるのならば、蛍光板の輝度の判定は、実際に鉛板が線源を妨げているかどうかによるはずであり、ブロンドロがどう思っているかにはよらないはずです。

 

 結果、ブロンドロの輝度の判断は、彼が信じている鉛板の位置に依存していることをウッドは突き止めたのです。ブロンドロは、鉛板が間にある(N線を遮断している)と信じている時は、実際はその逆であっても蛍光板の輝きは小さくなったと報告しました。逆に、鉛板はないと言われると(N線が照射されるはずの時)たとえ実際は鉛板があっても、輝きは増したと報告したのです。

 

 ウッドは、このほかの実験でもN線が、ブロンドロの主観に基づくものであることを証明しています。また、その結果を「ネイチャ誌」に公表しました。1904年のことです。その後1907年頃には、フランスでも誰もN線の話題に触れなくなりました。しかし、ただ一人、N線の存在を信じ死を迎えるまで研究を続けた科学者がいます。そう、発見者のルネ ブロンドロです。