takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

福島原発事故-9

 少し余談になりますが、私は、福島、宮城、岩手の三県出身者にほとんど知り合いがいません。そのため、震災の被災者にも知り合いはいませんでした。そんな私ですが、ただ1人だけ、東日本大震災被災者で私の唯一の知り合いに渡辺隆行さんと言う方がいらっしゃいます。渡辺さんは、福島県相馬市被災され、相馬市から埼玉県さいたま市に避難しそこで整体師として起業独立されました。その経緯はご本人の著作「サバイバル起業-本当にゼロからの歩み方」-(本の泉社刊)に詳しく載っています。本としては、独立起業を目指す方への指南書ですが、別に起業を目指している方でなくとも生の被災者の声と前向きな生き方に共感できると思います、一読をお勧めします(渡辺さんとは、本で知り合った訳ではありません、あるセミナーで同席して色々お話を聴かせて頂きました)。

 

 その本の中で、渡辺さんは、地震当日のことを以下のように書いておられます。少し長いですが貴重な体験者の声です(一部、改行を改めています)。

 

 平成23年3月11日

 快晴の午後、私は福島県相馬市にある相馬港1号埠頭にいました。

 新規の案件であった海上物流事業の、船舶の積み荷の立会い確認に港湾に訪れていました。

 午後、2時46分、立っていられない程の長く激しい揺れ、電柱が竹のように揺れ、近隣住宅では屋根瓦や塀が崩落し舗装には無数の亀裂が入っていました。揺れが収まり僅かな安堵の中、港湾関係者が顔を見合わせながら

「あんなの初めてだ」

「大文夫だったか、破損ヶ所の点検急いで」

 各所へ点検、こ散る作業員の人たち。携帯電話の通信が不能になり、社内と連絡が取れないため一時帰社しようと車に乗り込みました。

 この行動が明暗を分けるとになります……この時、津波到達の18分ほど前。

 まだ、避難のアナウンスもなく、(あの揺れ凄かったな……船舶の連取に支障あるだろう…)と考えながら目に映る川面の光景に違和感を感じていました。

 車窓から眺めた、港湾へ流れ込む河川が静かに水かさを増していました。壊れた水道管が舗装を濡らして、アスフアルトを黒く染めていきます。沖ヘ目を向けると黒雲が立ち込め無数の稲妻が水平線に見えました。

 この時点で地震雲の直下に「津波」が迫っているとは知らずに(嫌な予感)に誘導され港湾から離れるため山間の県道へ向け車を登らせました。ルームミラーを覗くと、港湾近辺の交差点は渋滞になり、たくさんの車両が後方に列をなしていました。

 東北の3月。

 すぐに陽は沈み夕暮れの中、この後、どうなつたかを当日は知る由もありませんでした。港湾に津波到達直前までいた私は奇跡的に助かったのです。

 

~中略~

 

 翌朝、通常30分の通勤路を1時間かかり到着しました。本社ビルは高台に建っていて、その限下の光景に血の気が引きました。広大な陸地が、見渡す限り一面泥の海、それ以外は何もなくなっていました。遥か彼方に見えないはずの水平線が見えています。

【地獄絵図】という言葉しか思い浮かばない状況でした。

 会社には自衛隊、消防署から応援要請がきていて、建設部門の部長が指揮をとり、啓開作業に出ていました。「啓開」とは、救助のために道を造るということです。

元々の舗装道がどこにあったかもわかりづらく、重機が進入するにも指標となる建物が何一つない状況でした。見渡す限り泥と水平線しか見えない異様な光景の中に同行し、入っていきました。

 そこで重機が泥をすくい道を拓く作業を.見つめていると、重機あバケットに真っ黒な人影がすくい挙げられていました。「ストップ、ストップ」あわてて、自衛隊の人たちが止めに入りました。日の前の光景が信じられません。(こんな酷な光景が現実にあるなんて……)

 重機の使用では、遺体が破損し身元確認ができなくなるといいます。啓開作業は2時間足らずで中断されました。私を含む出勤者数名も解散となり帰路へつくことになりました。思い出したくない光景が脳裏を横切りながら、帰宅の途につきました。改めて自宅の周りを見ると、屋根瓦の一部が崩れ、浄化槽が液状化で浮上していて排水が逆流し使えない状態になっていました。

 母の実家が海岸沿いで津波の被害にあったため、我が家での受け入れ準備が必要でした。浄化槽、給湯設備を復旧しないと台所、風呂、トイレが使用でない状態の中、受け入れ家族の中に新生児が含まれていたので、早急に修繕作業に着手しました。

 修繕作業中の午後2時、南の空で「パーン」と破裂音が小さく聞こえました。

 それが、福島第一原発1号機の水素爆発でした。

 しばらくしてラジオから「福島第一原子力発電所内の1号機が水素爆発した模様です」

「半径3キロに居住の方は避難してください」

 追って、5キロ、10キロ、20キロと避難、警戒区域は同心円状に拡大していきました。

 この時点で「計画的避難区域」に南相馬市の一部が含まれ、次いで「緊急時避難準備区域」「避難勧奨区域」が発表されました。(どこまで広がるんだ)そう、思いました。

この時点で避難区域内とされた対岸から河川を渡った我が家は避難区域に該当していません。当時、幼稚園へ通う長男、その下にまだオムツをした1歳と2歳の三人の子どもたちがいました。

 10分おきに来る余震に子どもたちは震えて泣いていました。川を越えれば住所(地名) は変わってしまいます。しかしこの空間に何の違いがあるのでしょうか。賠償の確約など抜きに避難すべきだという判断に達したのです。

 

 

 どの時点で決断し、どう行動を取るかでその後の人生に大きな影響がでることもあります。渡辺さんの場合は、身の安全の確保を最優先して住む場所を変え、仕事をリセットして成功された訳です。相馬市に住み続けることにこだわったら逆の人生になっていたかも知れません。

 エンジニアが作る物は、不特定多数の人達に様々な影響を与えることがあります。事故はその最たる物だと言って良いでしょう。ですから、安易に「想定外」と言う言葉を使うことはできません。それは、逃げであり、後ろ向きの負けです。