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takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

アトミックパワー・大いなる力の制御-2

 日本では昭和20年の敗戦後、連合国から原子力に関する研究が全面的に禁止されていました。しかし、昭和27年(1952年)4月にサンフランシスコ講和条約が発効し、原子力に関する研究は解禁されることになりました。

 日本における原子力発電は、昭和29年(1954年)3月に当時の改進党に所属していた中曽根康弘、稲葉修氏を含む4名の国会議員により原子力研究開発予算が国会に提出されたことがその起点になっています。この時の予算2億3500万円は、ウラン235にちなんだものでした。当時の学卒初任給は4000~6000円ぐらいですから、今の40分の1~50分の1と考えると23,500万円は、100億~120億ぐらいでしょう。

 昭和30年(1955年)12月19日には原子力基本法が成立します。この法律で原子力利用の大綱が定められ同時に基本方針として「民主・自主・公開」の「原子力三原則」もその理念の中に取り入れられました(あくまでも、当時の基準で公開です、現在の基準ではありません)。

 その基本法成立を受けて昭和31年(1956年)1月1日に原子力委員会が設置されます。また、理由は良く分からないのですが、初代の委員長は読売新聞社社主でもあった正力松太郎です。正力氏は翌昭和32年4月29日に原子力平和利用懇談会を立ち上げ、さらに同年5月19日に発足した科学技術庁の初代長官となり、原子力の日本への導入に大きな影響力を発揮しています。しかし、この登用には色々問題があったらしく、この時原子力委員であった日本人初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹博士は、正力氏の長官任用に抗議し自ら委員を辞任しています。

 昭和31年(1956年)6月に日本原子力研究所(現在の、独立行政法人日本原子力研究開発機構)が特殊法人として設立され、研究所が茨城県那珂郡東海村に設置されました。これ以降東海村は日本の原子力研究の中心地となっていきます。さらに、翌年昭和32年11月1日には、電気事業連合会加盟の9電力会社および電源開発の出資により日本原子力発電株式会社が設立されました。これで、基盤としては準備完了です。

 日本に初めて設立された商用原子力発電所東海村に建設された東海発電所であり、運営主体は日本原子力発電です。ここで、最初に作られた原子炉の種類は世界最初に実用化されたイギリス製の黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉をモデルにしたものでした。

「マグノックス炉」と呼ばれるガス冷却炉は、核分裂により生じた熱エネルギーを、高温の炭酸ガスとして取り出す方式で、英国が開発した原子炉です。ガスの冷却材は、熱容量および熱伝導率が低いため、ガス圧を上げることで必要な熱出力を確保していました。しかし、軽水炉に比べて、熱出力密度が小さい為に、原子炉がどうしても大型になってしまうことが問題でした。

 海外では、マグノックス炉を原型に、多くのガス冷却型発電原子炉が実用化されました。ガスとしては炭酸ガスの他、ヘリウムを用いるものもあります。そのため、日本初の原子力発電所、東海発電所にも導入されたのですが、安定して運転を行うためには頻繁に燃料を交換する必要がありました。東海発電所では、大きな燃料交換機を使用し、一日に20本から30本の燃料棒を交換していたそうです。そのため、経済性等の問題によりガス冷却炉はこれ1基にとどまり、後に導入される商用発電炉はすべて軽水炉となりました。