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takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

アトミック パワー・解き放たれた力-4

 いよいよ、マンハッタン計画に入ります。政治的な部分にはほとんど触れず、科学技術の分野に絞ってご説明します。

 最初に年代を追った説明をします。1939年8月2日、レオ シラードが、アインシュタインの署名を得た手紙を合衆国大統領フランクリン ルーズベルトに送ります。シラードは、ドイツ時代にアインシュタインの教え子であったことがあり、アインシュタインの家を度々訪ね、連名で発明の特許を取得するなど深い付き合いをしていました。彼は、ナチスドイツが既に核兵器の研究を進めていた場合に備えて核分裂を利用した兵器の実現可能性についての研究に資金を提供するように助言したのです。後にアインシュタインは、そんな手紙に署名したことを後悔したのですが、作ってしまった後ではどうにもなりません。

 

1939年9月1日、ナチスドイツのポーランド侵攻を最初に第二次世界大戦が開始されます。

10月11日、経済学者のアレクサンダー ザックスがルーズベルト大統領に面会、アインシュタイン・シラードの手紙を渡します。この手紙を読んだルーズベルトはウラン諮問委員会の設立を承認します。

10月21日 - ウラン諮問委員会の最初の会合があり、議長は国立標準局のリーマン ブリッグスでした。中性子の実験のための6000ドルの予算が付けられます。

 

1940年3月、オットー フリッシュとルドルフ パイエルスが覚書を発表します、これによると原子爆弾を動作させるためには少なくとも1ポンド(およそ0.45kg)の濃縮ウランが必要であると計算されています(全く不足です)。

4月には、イギリスでMAUD委員会(モード委員会)が結成されます。この委員会は、第二次世界大戦中のイギリスで原子爆弾の可能性を探るために設けられた科学者からなる委員会です。1939年に、ウランの核分裂による連鎖反応の可能性が明らかになりました。しかし、ウランの同位体ウラン235の濃縮が技術的に実現できなければ、原子爆弾は事実上不可能であると考えられていました(ウラン235は連鎖反応を起こしますが、天然ウランには0.8%しか含まれていません、99.2%は連鎖反応を起こさないウラン238です)。しかしイギリスに亡命していた科学者オットー フリッシュとルドルフ パイエルスが、ウラン235単独での絶大な破壊力をもつ小型の爆弾が可能であり、分離が必要な量はわずかで済むとの見積もりを提出します(前述)。そのため、ウランを用いた原爆の真剣な検討が始まることになります。その検討を行ったのが、イギリスに亡命していた欧州の物理学者たちであり、その科学者が集まってMAUD委員会が結成されます。

この年の12月、ドイツ系イギリス人物理化学者のフランシス サイモンが、ガス拡散法によるウラン235の濃縮法の可能性について報告します。この頃、アメリカやイギリスの政治家、軍人、科学者の間で原爆開発はもはや避けることのできない問題だと認識されるようになります(この時点では、まだ日本とアメリカは開戦していません)。

 

1941年2月26日、プルトニウムの発見の確証がグレン シーボーグとアーサー ワールによって得られます。

7月15日、MAUD委員会による核爆弾の設計とコストについての最後の詳細なテクニカルレポート発行。

1941年に委員会はウラン濃縮とそれによるウラン爆弾が技術的に可能だとする報告を提出し、これがアメリカ政府に伝えられて原爆開発計画の直接の開始要因となりました。

12月6日、ヴァネヴァー ブッシュによる会合が開かれます。ここで、ハロルド ユーリーはガス拡散法によるウラン濃縮の研究へ、一方アーネスト ローレンスは電磁濃縮法の調査に従事すると決定しました。

12月7日、真珠湾攻撃によって日米戦争勃発します。その4日後、ナチスドイツが対米宣戦布告しました。

12月18日、アメリカは核分裂兵器開発の決定します。

 

1942年の7月から9月、物理学者のオッペンハイマーカリフォルニア大学バークレー校で夏の会議を招集、原爆の設計を議論しました。この会議でエドワード テラーは、水素爆弾の可能性を強硬に主張します。

8月、アメリカ陸軍工兵司令部によるマンハッタン工兵管区(MED)の創設されます。

9月17日、レズリー グローヴス大佐がMEDの司令官に任命されさらに、6日後准将に昇進します。軍人側の原爆開発最高責任者はこのレズリー グローヴスです。

9月26日、マンハッタン計画はワー・プロダクション・ボード(War Production Board)によって、最高の戦時優先等級を与えられます。

10月15日、グローブスは、オッペンハイマーを"サイトY"研究所の科学研究の調整役に任命します。

12月2日、エンリコ フェルミによって設計されたシカゴ大学の原子炉シカゴ・パイル1号が歴史上初めて臨界に達します。

 

1943年2月18日、オークリッジでY-12工場の建設開始されます。この工場はウラン濃縮のための巨大電磁分離工場です。

8月19日、ルーズベルトとウィンストン チャーチル首相がケベック協定に署名します。この時点からイギリス人科学者チームはマンハッタン計画に合流し、米英は力を合わせて原子爆弾を作ることになります。

10月4日、ハンフォード サイトでプルトニウム生産のための原子炉の建設開始。

10月には、プロジェクトW-47、後にプロジェクトアルベルタと呼ばれる原爆運搬計画が開始されます。つまり、まだ出来てもいない原爆をどうやって運ぶのかを検討している訳です。ある意味流石です。

1944年4月5日、ロスアラモスで、エミリオ セグレはオークリッジの原子炉で生産されたプルトニウムを受け取るのですが、すぐに、プルトニウムガンバレル型の原爆に使用するのは不適当と発見されます。

7月4日、オッペンハイマーはセグレの最終調査を検査し、ガンタイプ(ガンバレル型)のプルトニウム原爆"シンマン"の開発を放棄。研究所では爆縮方式による原爆の開発が最優先事項とされます。

7月20日、オッペンハイマーは爆縮方式の開発のためロスアラモスの組織体制を刷新します。

12月中旬、ファットマンの爆縮レンズの実験成功となります。

 

この後は、作って落とすだけと考えていた人と、これを本当に使うのかと考えていた人の葛藤が起こるのですがそれはこの次です。