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takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

アトミック パワー・その黎明期-2

科学技術

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 昨日、ポーランド出身の女性科学者マリア スクウォドフスカ キュリーのことを、お話ししました。19世紀末の西欧には、アトミック パワーに注目し後に単位の名前になるような大勢の科学者がいました。マリーよりも、22歳年上で髭もじゃの写真で有名なヴィルヘルム コンラート レントゲン(1845年3月27日~1923年2月10日)もその一人です。彼の名前は有名になりすぎてレントゲンが人の名前であることを忘れさせるほどです。

 レントゲンは、1845年3月27日にドイツのレンネップで生まれました(現在はノルトライン=ヴェストファーレン州デュッセルドルフ行政管区に属すレムシャイトの1部です。地図上では、ドイツの中央西側)。父はドイツ人で織物商のフリードリッヒ レントゲン、母はオランダ人のシャーロット フローインで、裕福な家庭の1人息子でした。1848年(本人は3歳)、一家はオランダのアペルドールン(オランダの中ではドイツ近く)に移り住み、レントゲンはここで初等教育を受けます。しかし卒業目前の時期に教師にいたずらをした友人をかばったため、ギムナジウムに進学できませんでした。

 結局、1862年(本人は17歳)から2年半オランダのユトレヒト工業学校で学んだ後、1865年にチューリッヒ工科大学の機械工学科に進学しています。その後、1868年には、機械技師の免状を取得しましたが、チューリッヒ工科大学でルドルフ クラウジウス(熱力学の法則を定式化した高名な物理学者)の物理学の講義を聞いて、物理学への関心が高まりました。そのため、大学に残り、クラウジウスの後任のアウグスト クントに師事し、1869年に『種々の気体の熱的性質に関する研究』で博士号を取得します。大学入学が1865年、68年に卒業、69年に博士号ですから当時としてもスピード出世です。

 ヴィルヘルム レントゲンがX線を発見したのは、1895年11月にクルックス管で実験をしていた時でした。彼は、次の実験に備えて後方のスクリーンに蛍光性を持つ結晶の粉体を塗布しました。そのあとクルックス管に電気を通すと、管から放たれた光線が結晶に当たって光を発しました。ところが、管を黒いボール紙で覆って可視光と紫外線をしっかり遮断しても結晶は光を放ちます。レントゲンも知っていた通り、陰極線は空気中を100ミリ程度しか進みません。ですから、その先で蛍光を引き起こした原因は陰極線ではないことはすぐに分りました。

 この謎の光線は、管とスクリーンの間にどんな紙や木材を置いても通り抜けたため、彼は様々な物を管の前に置いて実験を続けました。彼の実験によって以下のことが分っています。

  • 1,000ページ以上の分厚い本やガラスを透過する
  • 薄い金属箔を透過し、その厚みは金属の種類に依存する
  • 鉛には遮蔽される
  • 蛍光物質を発光させる
  • 熱作用を示さない

 あるとき、レントゲンは自分の手の骨の輪郭が壁に映っていることに気がつきます。その奇矯な現象に取り憑かれ実験室に移り住んで寝食もそこで行いながら実験を繰り返しました。

 レントゲンは、この光線の正体が分らなかったため、数学の未知数を表す言葉「X」を借りて取りあえずX線と名付けることにしました。それが、今日のX線(レントゲン線)です。レントゲンは、真空陰極管に電気を通すと生まれるアーク放電が管内の不活性ガスと相互作用を起こしたときにX線が発生することを見いだします。X線が骨などの固体にぶつかった時に結果として現れるのがX線画像で、通常は密度の高い物質ほど明るく写ります。

 最初の発見をしてから2週間後、レントゲンは妻のアンナ ベルタの左手を写真乾板に載せ、結婚指輪も写ったX線画像を撮りました。妻は、この科学的成果に全く関心を示さず、むしろ写真を嫌悪して「死んだ自分を見た」と周りに話したそうです。

 レントゲンはこの功績よって、20世紀最初の年1901年から与えられることになったノーベル物理学賞の1回目の受賞者となりました。

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