takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

三井三池炭鉱の炭塵爆発は、戦後最大の被害だった

始めに、1963年(昭和38年)11月9日には、国内で2つの大きな事故が発生しています。福岡県で発生した「三井三池炭鉱事故」と神奈川県横浜市鶴見区にある東海道本線鶴見駅 - 新子安駅間の滝坂不動踏切で発生した列車脱線多重衝突事故、通称「鶴見事故(つるみじこ)」です。そのため、この日はマスコミによって「血塗られた土曜日」「魔の土曜日」と呼ばれました(いかにも、無責任なマスコミの言い方です)。

両方の事故を取上げたいのですが、長くなりますので被害者数の多い三井三池炭鉱事故の方を取上げることにします。

 

//// 以下は、失敗知識データベースから転載 ////

 

1963年(昭和38年)11月9日、福岡県大牟田市にあった三井三池鉱業所坑内の坑口から約500メートル付近で爆発が起きた。爆風と炎は各所に落盤を引き起こし、さらに一酸化炭素が坑内に充満して、死者458人、重軽傷者555人と戦後最大の炭坑災害となった。

保安体制の不備が、主たる原因であった。

三井三池炭鉱は、炭層が有明海側に傾斜しているため、時代とともに坑口が山側から海側へ移り変わっていき、有明海海底350~450m付近の炭層を採掘していた。

経過

  1. 石炭から石油へと当時のエネルギー革命が進むなか、三井鉱業は1959年から1960年にかけて大量解雇による合理化を行なった。
  2. これをめぐって労働争議が行なわれたが、労働側が敗北し大規模な合理化が進められた。
  3. その結果、争議前後で人員は15,000人から10,000人に削減されたが、生産量は8,000トン/日から15,000トン/日に増大、1人あたりの能率は2.8倍に上昇していた。
  4. このように生産コストの切り下げに伴って保安要員も減少していった。
  5. 1963年11月9日、坑口から約500m入った坑内で爆発が起きた。爆風と炎は各所に落盤を引き起こし、さらに一酸化炭素が坑内に充満した。その結果、死者458人、重軽傷者555人の被害者を出した。

原因

この爆発は炭塵爆発と呼ばれるものである。これを防ぐ技術は本事故から50年も前に確立されており、わが国では大正以来事故発生は皆無に近く、戦後は1回もなかった。炭塵は扱いやすい危険物ともいわれ、常に清掃し水を撒いて湿らせておくことによって爆発を防ぐことができる。

争議前に実施されていたこの簡単な炭塵爆発防止策が、争議後はほとんど実施されなくなっていた。生産第一主義による保安要員の大幅削減がもたらした結果である。また本来、組織内のチェック機構であるべき組合も、平和協定(ストしないかわりに手当がつく)に基づいて生産に協力する立て前上、爆発防止策の未実施を見過ごしていた。

対策

事故原因の調査後、応急対策として保安体制が強化され、操業が再開されたが、1997年3月廃坑に至った。

知識化

  1. 経営的な観点で行なう合理化の裏には、大事故につながる保安軽視の伏流があることを肝に銘じておく必要がある。また、このような危険な状態に陥る前に、組織内でチェック機能を働かせることが予防として不可欠である。
  2. 空気中に浮遊する微粉状の可燃物は、全体としては、可燃ガスとまったく同じである。石炭ばかりでなく小麦でも同じ爆発が起こり得る。これを、「粉塵爆発」という。
  3. 粉塵に直接火をつけても爆発しないが、空気中に広がった粉塵は1つ1つが小さいので普通の酸素濃度でもすぐ燃え上がり、それらが集まることで爆発状態になってしまう。炭塵爆発はこの粉塵爆発の1種である。

//// ここまでは、失敗知識データベースから省略して転載しています。

 

昔の事故ですが、有名な事故です。昭和38年当時、すでにエネルギーの主役は石炭から石油に変っていました。石炭を採掘する三井鉱業は1959年から1960年にかけて大量指名解雇による合理化を強行しようしていました。三池労働組合ら労働者側は全国の労働組合の支援を得て313日にもおよぶ労働争議、いわゆる「三井三池争議」を行いっていました。しかし、結果的には労働側が敗北し大規模な合理化が強行されました。労働争議前後で人員は15,000人から10,000人に削減されましたが、生産量は逆に8,000トン/日から15,000トン/日に増大しています。

生産コストの切り下げのため、保安要員も減少していったなかで、炭塵爆発が起ったわけです。上記原因のところにもあるように、粉塵爆発の対策は確立されていて国内では、40年近くも無事故でした。要するに綺麗に清掃して、散水しておけばよいのです。にも拘わらず、これほど大きな事故を発生させたのは、無茶な人員削減によるモチベーションの低下、労働意欲の低下が真因だと言えるでしょう。人は、命にかかわるようなことでも、「どうでもよい」、「どうしょうもない」と思うようになってしまうのです。

事故当時、坑内には1,200人以上の労働者が入っていました。事故の犠牲となった大半の人は、爆発によって亡くなったのではなく一酸化炭素による中毒死でした。炭塵が爆発することによって、一酸化炭素が大量に発生します。事故が起きた第一斜坑は入気斜坑でした。そのため、発生した一酸化炭素を大勢の労働者が居る有明海海底の坑内現場に一酸化炭素を送り込んでしまったのです。もし、排気斜坑での事故だったら死者はほとんど出なかったと思われます。もとろん、こんなことを言っても仕方がありません。

また、後の裁判では救助活動の遅れも指摘されています。最初に到着した23名の救援隊でさえ事故から3時間経っていました。最後に到着した救援隊は7時間後です。これでは、症状の軽い人でも助かりません。会社側は、コストがかかる安全対策、救護班の設置などを怠っていたようです。これも、労働争議と関係があるのかもしれませんが、裁判で明らかにはなりませんでした。

九州工業大学教授荒木忍氏は、事故の原因を調査して次のように推測、結論づけています。

  • 保安無視の生産第一主義。
  • 炭塵爆発の防止策としての炭塵の除去と撒き水、岩粉の撒布を怠ったことにより、坑内に炭塵が蓄積されていた。
  • コスト削減から、ボタ積炭車の部品交換を怠っており、部品が劣化していた。
  • ボタ積炭車の連結環が破断したことにより脱線し、摩擦熱、あるいは摩擦火花が坑道内の炭塵に着火した。

一方、反対の立場である三井三池炭鉱側が雇った学者によれば、事故の原因は次のように推測、結論づけされています。

「揚炭ベルトの上の原炭に付着していた炭塵に火花が着火した。これは不可抗力な事故である。」

当時、福岡県警察福岡地方検察庁は、荒木忍教授の鑑定結果を元に三井三池炭鉱幹部を起訴しようとしました。ところが起訴に積極的な福岡地検検事多数が突然転勤させられることになったのです。新たに構成された福岡地検検事グループは、事故原因の科学的な立証はできない、と三井三池炭鉱幹部については不起訴処分としました。何とも後味の悪い不可解な事故の顛末です。