takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

タグボートの衝突により、クイーンイザベラ大橋が落橋し8名が犠牲に

2001年(平成13年)9月15日、アメリカのテキサス州イザベル港、南パドレ島にある、クイーンイザベラ大橋(南パドレ島とテキサス州イザベル港をつなぐ大橋)の一部が崩壊した。

事例概要

タグボートと曳航されていた四隻の荷船がクイーンイザベラ大橋の支柱に激突。そのため大橋の一部が落橋し、橋を走行中の車数台が橋から85フィート(約26メートル)下の海峡に落下。そのうち何台かは350トンのコンクリートの下敷きになった。13人が水中から救出されたが、クレーンで引き上げられた車の中から遺体が発見されるなどして、8人の死亡が確認された。当日の潮の流れが速かったことと水路にカーブがあったことで設置されている浮標がずれていたことが船を浅瀬へと誘い込み、砂州にぶつかり、その進行方向を狂わす原因となった。また、航海灯も事故当時作動していなかった。この事故により、クイーンイザベラ大橋の修理には最終的におよそ1ヶ月と約100万ドルがかかると予測された。この事故は南パドレ島に多大な経済的ダメージを与えることになった。

原因

専門家はタグボートの船長(44)のクイーンイザベラ大橋付近での状況に対しての認識不足を指摘した。船長は20年の航行経験があり、事故現場付近の航行経験も数回あった。事故当日、南西のほうからいつになく強く潮が流れていたが、船長はその強さに気がつかなかったという。そして、カーブのある水路に入ってきたのだが、潮の流れの強さと、カーブがあったために水路に設置してある浮標の位置がずれており、海峡の端のほうの浅瀬に入り込んでしまった。船の右舷が砂州にぶつかり、その後船はコントロールを失い進行方向が徐々に狂っていった。また、船員達が標として使う航海灯が当日点灯されていなかったことも明らかになった。なお、オペレーターは飲酒や長時間勤務をしておらず事故の原因になるような手落ちはなかった。

対処

事故直後より州警察と沿岸警備隊が事故原因の調査を開始。大橋は数週間閉鎖された。そして最終修理完了までの間、組立橋梁が設置された。また、州はフェリーやチャーターボートを手配し、本土と南パドレ島との行き来の策をとった。

対策

この事故を機に水路のS字カーブを取り除く等の整備が検討されることになった。また、潮の流れの異常を警告するために水路に計測器を設置することも検討されることになった。

後日談

この事故のために解雇されるなどして金銭的に困難に陥った人たちのための『パドレ・イザベル救済基金』がつくられ、ウェブサイトなどを媒体として人々に呼びかけられた。そして、2ヵ月後の11月21日修理の完了したクイーンイザベラ大橋は再開された。

 

//// ここまでは、失敗知識データベースから省略・加筆して転載しました。

 

船が衝突した原因よりも、支柱にぶつかっただけで橋の一部が落ちると言うのが謎の事故です。自動車で走っていた人だって突然足下の橋が落ちたら驚きます。たまたま、車の少ない時間だったから8名が死亡、13名が負傷ですんだだけです。南パドレ島は、テキサス州では有名な観光地ですから、時期と時間帯によっては大勢の人がこの橋を利用しています。亡くなった方は本当に不運としか言いようがありません、ご冥福を祈ります。

海外の統計はあまり整備されていないようですが、国内の船舶事故はどの程度発生しているのでしょうか。

運輸安全委員会のデータによれば、船舶の事故は、『衝突、単独衝突、 乗揚、 沈没、 浸水、 転覆、 火災、 爆発、 船体行方不明、 施設等損傷 、死傷等、 その他』と全部で12項に分類されています。合計件数では、直近の5年間で1000件/1年程度。分類の中では衝突と乗揚が多く、この2項で500件程度になっています。上記、南パドレ島の事故は単独衝突に分類されると思うのですが、単独衝突は150件/1年と3番目に多い事故となっています。

正直、港を見れば船なんてまばらに存在するだけだし、ゆっくり動いているのだからそんなに衝突するのは以外でした。時化(しけ)の時に漁船が沈没・転覆するニュースはよく聞きますから件数としては、沈没や転覆が一番多いのかと勝手に思っていたのですが、この二つを合わせても50件/1年程度です。やはり、印象は当てになりませんね。

ところで、運輸安全委員会ですが、この委員会は2008年10月1日に改組されています。マニア向けの話になりますが歴史を辿ると、先ず、1971年7月30日の全日空機雫石衝突事故を教訓に、航空事故調査委員会として1974年1月11日に運輸省に設置されました。その後、1991年の信楽高原鐵道列車衝突事故、および2000年3月8日の営団地下鉄日比谷線脱線衝突事故をきっかけに2001年10月1日、航空・鉄道事故調査委員会と改組されています。

さらにその後、2007年8月、国土交通省は航空・鉄道事故調査委員会海難審判庁を統合して運輸安全委員会を新設するよう総務省(行政管理局)に要求しました。そして、同年12月に国土交通大臣と総務大臣との折衝により設置が合意されました。発足したのは、前述した2008年10月1日です(2007年に話し合ったのは、福田内閣の閣僚、国土交通大臣冬柴鐵三氏、総務大臣は増田寛也氏です。しかし、2008年9月24日で総辞職していますので10月1日に発足した時は麻生内閣になっていました)。

トップがどう変っても、問題なく決められたとおり組織が動くのはすごいことです。民間企業ではあまりないでしょう。