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takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

函館と北海道について考える-12

12-高田屋嘉兵衞(たかだや かへえ)

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格好のいい侍のようですが土方歳三ではないことはすぐにおわかりでしょう。高田屋嘉兵衞は、江戸時代後期の商人です。彼は、「蝦夷地常雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許されていました。

高田屋嘉兵衛[明和6年1月1日(1769年2月7日) - 文政10年4月5日(1827年4月30日)]は、淡路国津名郡都志本村百姓弥吉の長男として生まれました。寛政2(1790)年摂津国兵庫港に出て船稼ぎをしていましたが、同4年24歳の時船頭となり、住まいを兵庫西出町に構えます。故郷の淡路島から、弟嘉蔵、金兵衛、嘉四郎を呼び寄せ、主として長崎、下関などの回漕(船で荷物の運搬をすること)に当りました。こうして寬政7年和泉屋伊兵衛の手船の船頭となって奥州酒田に航海し、手船新造を計画して帰り、西出町に「諸国物産運漕高田屋嘉兵衛」の看板をあげて独立しました。この時、兵庫の北風家の助けを得て、庄内で1700石積の辰悦丸を建造し本格的に廻船業、蝦夷地経営へ乗り出すことに成功します。

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 函館の町にとって高田屋嘉兵衛は、恩人です。

文化3年(1806年)、箱館の大火で町の大半が焼失した時、高田屋は自己資金を投じて被災者の救済活動と復興事業を率先して行なっていました。市内の井戸掘や道路の改修、開墾・植林等まで自己資金で行なうなど、箱館の基盤整備事業を実施しています。さらに、造船所も建設し、兵庫から腕利きの船大工を多数呼び寄せ、官船はじめ多くの船を建造していきます。もちろん、商人としてここでの投資は、後で十分もとが取れると考えてのことだったとは思いますが、上の写真の中にも見える「ゴロヴニン事件」で彼がとった行動を見ても、自分の私利私欲だけで動く人ではなかったことが分ります。

さて、そのゴロヴニン事件です。

ゴロヴニン事件とは、日本の江戸時代にあたる1811年(文化8)、ロシアの軍艦ディアナ号艦長のゴロヴニンが日本に抑留された事件です。

1811年(文化8年)、松前藩は測量のため千島列島へ訪れていたディアナ号を国後島で拿捕し、艦長ゴローニン海軍中佐ら8名を捕らえ抑留しました。ゴローニンらを人質に取られ、ディアナ号に対し砲撃する日本側に対し、副艦長のピョートル・リコルドは一度ロシアへ帰還し、日本人漂流民を使者、交換材料として連れて翌1812年(文化9年)に再び来日します。8月には国後島においてゴロヴニンと日本人漂流民の交換を求めますが、日本側はゴロヴニンらを処刑したと偽り拒絶します。

リコルドは報復措置として国後島沖で日本船の観世丸を拿捕。乗り合わせていた廻船商人の高田屋嘉兵衛らを抑留しました。しかし、嘉兵衛は、リコルドと交渉し「自分が責任を持って松前藩と話し、ゴロヴニンを開放させるから日本へ戻せ」と依頼します。翌1813年(文化10年)9月、帰国した嘉兵衛は松前奉行を説き伏せ、ロシア側に侵略の意図が無いことを納得させ、人質解放に尽力します。ゴロヴニンは高田屋嘉兵衛と捕虜交換により解放され、ロシアへ帰国します。

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こんな資料館もあるのですが、資料が貸し出し中で休館となっていました。ただし、数年前に帰郷した時には中の資料を見ています。

嘉兵衛の資料館は、函館市立のものもあります(以下)。

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もう少し近づきます。

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入館料は300円です。私は、2度目でしたが300円を払って入りました。残念ながら、中は撮影禁止です。また、受付では女性が一人で本を読んでいました。

この資料館のすぐ近くに何ともレトロな喫茶店があります。

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全体は、こんな感じです。

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函館の元町、末広町などに今でも残っている和洋折衷の旧い建物です。