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takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

函館と北海道について考える-11

11-函館西部地区

金森倉庫群は函館西部地区末広町の港湾沿いに立ち並び、観光スポットとなっています(8回目でも紹介しています)。今回は、この倉庫の生い立ちにまつわるお話を紹介します。

この周辺は幕末の頃、函館市地蔵町築島(明治以降は船場町と改称)と呼ばれ、外国人の居留地や官設造船所などがありました。倉庫群の西側の一角はドイツ商人のシュルターが居住し、同じドイツ人のシュトラントと貿易の仲介をするかたわら船舶給水業を行っていたそうです。

そのため、30年近く前ですが、西ドイツのニュルンベルク大学の学生が居留外国人の調査のために市役所の資料室に来室した時、「東ドイツのポツダム公文書館にシュルターらに関する領事報告が保存されている」ということを説明していったそうです。

話を戻します、移住ドイツ人だったシュルターらが亡くなった後、その洋館は料理店(養和軒)に転用されていました。しかし、明治23年に洋物商の渡辺熊四郎が、これを購入して洋館は湯川に移し、跡地に倉庫を建設したのです。

渡辺熊四郎が倉庫業を始めたのは明治20年のことでした。それまでの倉庫業といえば、所有者も大手の問屋商人や海産商、それに三菱会社や共同運輸会社などの海運会社に限られ、その用途も専ら自己の営業に伴うための施設だったのです。

ですから、他人の物品を保管し、倉庫証券を発行するという近代的な企業としての倉庫業は未発達な状態でした。全国的に見ても、倉庫業が企業として成立するのは、この少し後の頃ですから、渡辺が新しい時の流れにいかに機敏であったかが分かります。

彼はまず、日本郵般(株)に合併して不用になっていた共同運輸の敷地(現在の東側の棟の区画、この土地は官設造船所、続豊治造船所、北海道運輸会社、共同運輸、日本郵船と使用者が転々としています)を同20年に購入し、その10月に2万石(昔の容積単位、1石は10斗、約180リットル)収容のレンガ造りの倉庫を完成させ、金森の屋号(カネモリ)倉庫として開業しました。

しかし、数年で手狭になったので、前述したシュルターや隣地の旧広業商会(貿易会社)の土地の確保をして営業規模を拡張していきました。同28年の『函館町別倉庫調』によると21棟1656坪に及ぶ倉庫を所有し、断然他の倉庫業者を引き離しています。

明治40年の大火により、すべて焼失しましたが直ちに同じ場所に再建、同42年5月に完成しました(金森商船(株)倉庫部調べ)。この時の倉庫が今でも利用されているのです。

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この「森」と言う字を曲金(まがりがね)で囲ったマークが、「かねもり」の屋号です。函館の人でも「かなもり」と呼ぶ人がいますが、「かねもり」が正解です。

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中は、レストランや、雑貨品店、通常のお土産店、牛乳やチーズを活かした菓子類の店で一杯です。