takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

函館と北海道について考える-4

さて、函館である、先ずは、地名の由来から。

4-歴史的変遷

4-1-地名の由来

地名に関しては、諸説ある。

古来、土着民のアイヌによって、「ウスケシ」「ウショロケシ」といわれ、記録・文献には「宇須岸」「臼岸」などと呼ばれていた。 15世紀の半ば、奥羽の戦乱に敗れ蝦夷地に逃れ渡った複数の小豪族たちは、それぞれ渡島半島の東西にわたる沿岸の要所に「館」(域郭)を築き、地域を支配した。館の規模は、東西35間(約63メートル)、南北28間(約50メートル)に及び、空濠を施し、四方に土塁を巡らす堅固なものであったと伝えられているが、残念なことに何にも残っていない。

その小豪族の中で、享徳3年(1454年)、南部氏との戦いに破れた津軽の豪族・安東政季を擁し、武田信広らと共に蝦夷地に渡った河野政通が、函館山の麓(現在の弥生町付近)に築いた館が箱型だったため箱館と呼ばれるようになり、明治時代になって函館と改められたとされている説が一番有力らしい。

異説としては、以下がある。

 

  • 当時、この「館」の築造の際、建設現場から筐筥(きょうきょ、籠(かご)と箱)が出土したことにちなんだ。
  • 築かれたこの「館」をアイヌは「ハク・チヤシ」(小さな館)と称し、ハク…箱 チヤシ…館-と当てた。

 

4-2-開港

安政元年(1854年)3月3日、現在の神奈川県横浜市でペリーと幕府との間で日米和親条約が調印された。これにより日本は、伊豆の下田港と松前地の箱館港の両港においてアメリカの捕鯨船に対し薪水・食料・石炭等の欠乏品を供給し、かつ日本に漂着したアメリカの漂流民を扶助し、両港に護送してアメリカ船に引渡すことが決まった。開港の時期は、下田港が調印日、箱館港が翌年3月とされた。前年ペリー艦隊が浦賀に来航し、幕府に開国を求めて以来8か月、安政元年1月ペリーが再び浦賀に来航し、神奈川(横浜)で条約締結のための第1回の日米交渉が開始されて以来僅かに23日後のことであった。寛永16(1639)年以来約215年間、幕府の祖法として維持されてきた鎖国体制は、ペリーの来航を大きな契機として僅か8か月という短期間のうちに崩壊したわけである。

 

「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たつた四はいで夜も眠れず」

 

は、この頃唄われた川柳だが、船の蒸気船に上等なお茶の喜撰を掛けた上出来の川柳だと思う、皮肉も強烈である。加えて、ペリーは、1回目は4隻の艦隊で来港したが上記2回目の時は、9隻で来港している。それだけ、焦っていたのかもしれないが幕府の方はいとも簡単に215年守り続けた鎖国体制を殆ど抵抗すること無く変えてしまった。

 

こうして安政元年2月末、日米両国間で翌年3月より箱館を開港する件が合意された。前述した通り、ペリーが松前開港を要求して以来23日後のことである。ペリーが日本北方の松前に1港の開港を強く要求したのは、北太平洋上で操業するアメリカの捕鯨船の寄港地を必要としていたからである。

ペリー自身、松前開港を要求した件について、「わが捕鯨船がその近辺を非常にしばしば訪れるサンガル(津軽)海峡を抜けて通過する船舶にとって位置の上で便利の良いところである」と記している(ペリーの「遠征日記」)ため、捕鯨船の寄港地を必要としていたことを物語っている。それだけに、2月25日、応接掛より箱館を開港する旨伝えられた際、一応は条件付きで受入れてはいるものの、この条件はあくまでも対日交渉での一つのゼスチャーに過ぎず、内心は、我が意を得たりとうけとめていたことはまちがいない。前述の「遠征日記」には、「箱館はサンガル(津軽)海峡の東の入口、北緯約42度のところに位置しており、しかもこの地域を巡洋するアメリカの捕鯨船舶の停帆地として、どの点から見ても便利な地理的位置を占めている。その多くは、毎年この海峡を通って、鯨を追跡して日本海へ抜けているのである」と記していることからも推測できる。

また、ペリーが箱館来航以前のこの段階で箱館の有利性を判断できたのも、シーボルトの『日本』やゴロウニンの『日本幽囚記』(Memoirs of a Captivity in Japan. 1824年・ロンドン)などによって、すでに箱館に関する情報を得ていたからであった。

 

函館市役所の公式サイト「函館市史」、ウィキペディア、「日本の歴史」・中央公論社を参考にした。