takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

函館と北海道について考える-2

2-「道」と言う行政区分

北海道は、地理学上の島である。日本では本州に次いで大きく、世界の島の中ではアイルランド島に次ぐ第21位の大きさである。この島の先住民であるアイヌの言葉(アイヌ語)では「アイヌモシリ」(ainu mosir、「人間の住む土地」の意)と呼ばれていた。日本人(和人)は近代に至るまでアイヌを蝦夷(えぞ)、その土地を蝦夷地(えぞち)もしくは北州、十州島などと呼んでいた。しかし、明治政府は開拓使の設置に伴い名称の変更を検討し、蝦夷地探査やアイヌとの交流を続けていた松浦武四郎は政府に建白書(政府や上役などに自分の意見を申し立てること)を提出した。その中で松浦は、蝦夷地の名称として「北加伊(きたかい)道」「海北道」「海東道」「日高見(ひたかみ)道」「東北道」「千島道」の6案を提示している。結局「北加伊道」を基本として採用し、海北道との折衷案として、また、律令制時代の五畿七道(ごきしちどう)の東海道、南海道西海道(さいかいどう)の呼称に倣う形として「北海道」と命名されたのである。

 

もともと、「道(どう)」というのは、律令国家地方行政での基本区分だった。起源は古代中国で、それにならって日本でも天武朝(7世紀後半)に成立した。

みやこに近い5つの国は、山城(やましろ)、大和(やまと)、河内(かわち)、和泉(いずみ)、摂津(せっつ))を畿内(きない)五カ国とした。次に、それ以外を7道(東海道・東山(とうさん)道・北陸道山陰道山陽道南海道西海道に分けたのである。

また、それぞれの「道」の中には、いくつもの「国」があった。たとえば東海道には、三河国(みかわのくに)、遠江国(とおとうみのくに)、駿河国(するがのくに)などが含まれる。つまり、五畿七道の「道(どう)」は、「国」をいくつも含むような広い地域だったのだ。

 

補足

「東海道」と聞くと「東海道五十三次」を思い浮かべる方も多いと思う。しかし、この東海道は、江戸時代に整備された五街道(東海道・中山道(なかせんどう)・日光(にっこう)道中・奥州道中・甲州(こうしゅう)道中)の一つであり、五畿七道の道とは異なる。

 

本題に戻る。

都道府県と言う言葉がある。日本の場合は、1都、1道、2府、43県であり、県と言う行政区分は中国やイタリア、フランス、スペイン、ギリシャなど非英語圏では使用されている。都(みやこ)が一つなのは、何となく分る国の都(首都)が二つあるのは寧ろおかしい。しかし、なぜ、現在の日本では「道」も、北海道だけなのか。それは、「道」を一つの行政区分としたからである。

前述したとおり、「道」は「国」よりも広い地域だった。江戸時代の「藩」は、ほとんどが「国」よりずっと小さいものだった。例えば、武蔵国には、深谷藩、岡部藩、本庄藩、八幡山藩、東方藩、川越藩、鳩ヶ谷藩・・・と21もの藩が存在した。

そのため、明治4年に廃藩置県が行われた直後は、3府302県もあったのだ。それらは、段々とまとめられて現在の43県になり面積も広くなった。それでも「道」よりは小さいもだった。言い換えると、国より小さな藩を集めて「県」を作り行政区分とした。逆に、国よりも大きな「道」も、面積は広いが人は少なかったから一つの行政区分としたのだ。

北海道の場合も、開拓が始まった初期の頃、具体的に言うと十年計画のもと開拓を推進し十年計画が満了すると、函館県、札幌県、根室県の3つの県が、北海道に誕生した。

しかし、官吏の数ばかり増えて非効率的だとか、開拓の実があがっていないという批判が多く、内閣制度発足にともなう機構改革を機に、3県は廃止され(1886年・明治19年)、再び北海道全体を管轄対象とした「北海道庁」(現在の北海道庁とは異なる)が設置された。以来、北海道は全体で一つの行政区域となっている。