takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

トム・ハンクスが好演したぎりぎりの生還劇-アポロ13号の事故

事例概要 

1970年4月13日、3度目の月面着陸に飛び立ったアポロ13号の支援船で第2酸素タンクで小爆発が起こり、支援船の外壁の一部が吹き飛ばされ、 支援船内部や他の機器にも損傷を及ぼした。 元々アポロ10号用であったタンクを13号に流用するため、設計変更で据え替えした時に、技師が1本のネジを外し忘れたという、ささいなことが事故原因の出発点であった。

13号のクルー達は、急遽月面着陸の予定を変更、月でUターンして、わずかに残った酸素、水、電力を利用して からくも地球に生還した。 

 

経過

 1970年4月11日13時13分に、船長と司令船パイロットと着陸船パイロットの2名(いずれも民間人)の3名を乗せたアポロ13号が月に向って発射された。

13日の夜21時ごろ、地上の管制官たちは、13号の宇宙飛行士たちが送ってきたテレビ用の映像を大スクリーンのひとつに映して見ていた。アポロ8号の搭乗員でもあった船長の案内から始まり、着陸船パイロットや司令船パイロットによるテレビショーが行なわれた。

実は、発射以来、司令船パイロットはいくつかの小さなトラブルにみまわれていた。たとえば、酸素タンクの一方の残量メーターが高いほうにふりきれたままで、本当の量が読み取れない、などというトラブルである。

21時5分すぎ、その警告ランプの1つが点滅し、管制塔のコンソールにある警告ランプも点灯した。黄色いランプは、支援船に積まれた2基の水素タンクの1つに圧力低下が起きていることを告げていた。支援船には、主推進システムだけでなく、さまざまな機器類が詰め込まれているが、その中に「燃料電池システム」があった。水素と酸素を反応させて電力を発生させ、副産物の水を宇宙船で利用するシステムで、水素タンクが2基、酸素タンクも2基、燃料電池にいたっては3つもある上、何か問題が起きても、気体はどのタンクからどの燃料電池にでも送れるようになっていた。

管制塔の技術者は、ずっと水素タンクの残量操作をしてきたので、水素タンク関係の警告ランプがつくことがよくあることを知っていた。しかし、水素関係の警告ランプがつくと、それが警告システム回路を先取りし、後から酸素系統で不具合が起きてもつくべき警告ランプがつかないという欠陥があった。彼は酸素タンクの状況を確認すべきと考え「極低温攪拌」のメッセージを上司の統括管制官を通じて、司令船パイロットに送った。

21時8分ごろ、メッセージを受け取った司令船パイロットは「極低温攪拌」の操作スイッチを押した。少しして軽い振動を感じただけで特に変化はなかった。ただ、電気系統の異常を知らせる黄色い警告ランプが点灯していた。しかし、実際は「極低温攪拌」のスイッチを入れた16秒後2号酸素タンクの中で、2本の裸の配線間にアーク放電が走っていた。そしてそのアークが酸素を熱し、タンクの圧力が上昇し、24秒後にタンクのドーム状のキャップが飛ばされていた。そして、タンクの外殻と内殻の間の断熱材に火がつき、その炎は外に噴出しようとする酸素にあおられて、支援船の第4隔室全体を火で包んだと推定される。

この時点においては、史上はじめて宇宙で大事故が発生したのに、宇宙船内の誰一人として事態を把握できずにいた。地上の管制官たちにいたっては、何が起きたかすらわかっていなかった。事態の大雑把な状況をつかむまでに15分もかかり、宇宙船が本当に修理不能のダメージを受けたと認めるまでに、さらに1時間もかかってしまった。つまり、2つあった酸素タンクが2つともだめになり、3つあった燃料電池もだめになり、2つあった電力供給ラインの1つが死んでしまったのである。燃料電池がだめになるということは、エネルギー源が一切なくなるとともに、水が供給されないということであった。

 

原因

 アポロ13号に使用した第2酸素タンクは、元々アポロ10号として用意されていたものであった。 アポロ10号の設計変更で、13号に流用した。据え替えの時に技師が1本のネジを外し忘れ、 移動の時に無理がかかってタンクは5cm程落下した。 この落下時に、タンク内部の酸素供給ラインの継手が緩み、隙間ができた。

液体酸素を充填する前に中の残留酸素をパージ(排除)する手順で、上記隙間のため、パージしきれなかった。対応策として中のヒーターで温度を上げ、パージした。このパージ中に攪拌用ファンの電源線のテフロン被覆が溶け、銅線が露出してしまった。

 

//// ここまでは、失敗知識データベースから省略・加筆して転載した。

 

この事故は、アポロ計画の中でも特筆されている事故である。そのため、後に「輝かしい失敗(successful failure)」と呼ばれるようになった。NASAの地上スタッフと宇宙船クルー達の努力の結果であろう。

私は、この事故の時は7歳であり、リアルタイムでは記憶にない。1995年7月22日に日本で公開された映画「アポロ13号」がなければ、そのまま忘れていた事故かもしれない。あの映画は、アポロ13号の船長だったジム・ラヴェルが原作者であり、本人もラストの方で出演している(強襲揚陸艦イオー・ジマの艦長役)。また、当時の関係者達も驚くほど装備やセットが忠実に再現されていたらしい。加えて、私の大好きなアメリカのテレビドラマ「CSI:ニューヨーク」でチームの主任マック・テイラーを演じているゲイリー・シニーズも出演していて映画のDVDは本棚の中に並んでいる。

話を戻そう、アポロ計画は、アメリカ航空宇宙局(NASA)による人類初の月への有人宇宙飛行計画である。1961年から1972年にかけて実施され、全6回の有人月面着陸に成功した。アポロ計画は、人類が初めて有人宇宙船により地球以外の天体(月)に到達した事業である。これは宇宙開発史において画期的な出来事であっただけではなく、人類史における科学技術の偉大な業績としてもしばしば引用される。また、プロジェクトと言うものがどのように実行されなければならないか、どのように実行されると成功に至るのかということの研究材料にもなっている。

しかし、そのアポロ計画も成功の連続だった訳ではない。3回の無人飛行の成功を受け、有人飛行に向けた訓練中に飛行船の火災事故が発生し、3名の宇宙飛行士が犠牲になっている、1967年(昭和42年)1月27日のことである。この飛ばなかった飛行船は、記憶にとどめるため後に「アポロ1号」と命名されている。

この事故から、1969年(昭和44年)7月16日にアポロ11号が発射されるまで、30ヶ月でロケットを10回発射している訳だから、当時のアメリカがいかに力を注いでいたのか分かると思う。同じ年の11月には、アポロ12号が再び月面着陸を成功させ、約半年後の4月11日、3度目の月面着陸を成功させるために13号が飛び立った訳である。