takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

ホテルニュージャパンの火災

1982年(昭和57年)2月8日の午前3時24分に火事は発生した。火事は火元の9階と10階を中心に同日12時半過ぎまで9時間にわたって燃え続け、延焼面積は約4,200平方メートルに達した。ホテルの宿泊客を中心に死者33名(台湾人12、日本人11、韓国人8、アメリカ人1、イギリス人1[1])・負傷者34名を出す大惨事となった。東京消防庁の調べでは、出火の原因は9階938号室に宿泊していたイギリス人の男性宿泊客の寝タバコが原因であった。廊下での焼死など火災による死者が多かったが、有害ガスを含んだ煙から逃れるために窓から飛び降りて命を落とした人も13人いた。なお、9階と10階の生存者の中には火災で非常口から避難ができず、シーツをロープ替わりにして窓から下の階へ避難した者や消防隊に救出された者もいた。

 この火災で問題となったことは、ホテルニュージャパン側が、度重なる消防当局の指導にもかかわらず、スプリンクラー設備などの消防設備を一切設置しなかったこと、また、火災報知機も故障したままの放置状態だったことである。

加えて、ホテル館内放送設備も故障のままであり、使用方法も教育されていなかった(非常放送用のテープを回そうとしたがベルトが切れて回らず、マイクもヒューズが切れていて放送できなかった)。

さらに、追い打ちを掛けるように、宿直ホテル従業員の少なさ、ホテル従業員の教育不足による初動対応の不備(最初に現場に到着した社員はマスターキーを持っていなかった。屋内消火栓の使用を試みたが、開閉バルブを解放していなかったため使えなかった等)、客室内の防火環境不備(可燃材による内装、間仕切りの一部が木製だった)、防火扉が多数閉鎖しなかった。

このような安全性を軽視した杜撰な管理状態が火災調査によって明るみになった。

東京消防庁では、第一報となる3時39分のタクシー運転手からの119番通報を受け、消防車など21台、救急車1台を出場させたが、「上階が激しく延焼し、要救助者が多数発生している」という現場からの報告を受けて矢継ぎ早に部隊を増強、午前4時2分には最高ランクの出場態勢である「火災第4出場」を発令、さらに基本運用規程外の応援部隊を出場させる「増強特命出場」と、多数の負傷者に対応するための「救急特別第2出場」をあわせて、ポンプ車48台、はしご車12台を始めとする123隊(101個消防隊、22個救急隊)を投入、消防総監が「警防本部指揮隊車」を使って現場最高指揮を執るという、全庁を挙げての消火活動を行った。

 これらホテルニュージャパン火災における数々の違法運営により、オーナー社長の横井英樹は業務上過失致死傷罪で禁錮3年の実刑判決が確定(1993年11月25日最高裁)した。横井は火災発生現場で報道陣に対して拡声器で「本日は早朝よりお集まりいただきありがとうございます」などと現場の状況を全く鑑みない、緊張感のない発言をしたことに加え、「悪いのは火元となった宿泊客」と責任を転嫁するコメントを発言した。また火災当時、人命救助よりもホテル内の高級家具の運び出しを指示したとされる。

 

ここまでは、ウィキペディアから省略して転載した。////

 

私は、この時、函館にいた。朝、テレビを着けたらニュースでこの火事が報じられていたことを今も覚えている。また、後になって東京に住んでいたとき、たまたま千代田区永田町2丁目を歩いていて、廃墟となったこの建物を見て驚いた。

このような火災が発生する度に、消防法は改正され規制が厳しくなっていく。ホテルニュージャパンでは、消防の設備点検をごまかすためにスプリンクラーのノズルだけを天井に接着していたという話まである。普通は、図面をもとに検査するから図面も偽装で描いたのであろうか。今は、どこの設備業者がどのような工事をしたのか、何時から何時まで工事を行ったのか詳しく報告させられるため、こんな偽装は無理だし見つかったらすぐに営業停止処分になる。そのため、まともな経営者なら絶対にニュージャパンのような杜撰なことはしないだろう。

私は、ホテルに宿泊する際、必ず非常出口を確認し自分の部屋から非常口まで歩いてみることにしている。また、逃げるときは身を低くして(一酸化炭素は空気より軽いため)、濡らしたシーツやタオルを身に纏って逃げた方が良いと頭の中では分かっている。もっとも、こんな知識は使わないで済ませたい。