takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

雪によるスリップ「ミュンヘンの悲劇」

1958年2月6日、西ドイツ(当時)・でプロペラ飛行機の墜落事故が発生した。この事故機は、イングランドフットボールリーグのチーム、マンチェスター・ユナイテッドのチャーター機だったため、主力選手の命が多く失われ「ミュンヘンの悲劇」とも呼ばれている。死者は乗員・乗客44名のうち、23名。

1955年から開始されたヨーロッパのクラブ選手権であるチャンピオンズカップに初めてイングランド代表として乗り込んだのが、当時黄金時代を迎えていたマンチェスター・ユナイテッドだった。しかしこの参戦は孤立主義を掲げていたイングランドサッカー協会の警告を無視したもので、国内リーグの日程を調整してもらうこともできず、強行日程を強いられることとなっていた。

準々決勝に進出したマンチェスター・ユナイテッドユーゴスラビアの強豪、レッドスター・ベオグラードと対戦。ホームで2-1と勝利したのち、2月5日(水曜日)に敵地・ベオグラードに乗り込み3-3の引き分け、総計5-4で準決勝進出を果たす。現代でこそ当たり前になった水曜・土曜の連戦だが、まだ飛行機の事情は悪く、移動に労力を費やしていたこの時代に共産圏の国で試合をしてまた帰ってくるというのは信じがたい強行日程であった。また、土曜日にはブラックバーン・ローヴァーズとの上位直接対決が控えており、帰国を焦っていた事情もあった。更に、この時期は欧州全土を寒波が襲っていた。

英国欧州航空(BEA)のチャーター機・BE609便は選手の一人がパスポートを忘れたためベオグラードを1時間遅れで出発した。当時のプロペラ機はブリテン島まで無着陸飛行する能力がなく、ミュンヘンに給油のために立ち寄った。給油後、2度離陸を試みるがエンジン出力が上がらず中止。不安に駆られた乗客の中には当時安全とされた後部座席に移る者もいたが、皮肉にもこれは犠牲者を増す結果となってしまった。午後3時4分、3度目の離陸を試みる。しかし離陸に必要な速度に達せず、機体は空港の端のフェンスを突き破り空き家に側面から激突して止まった。機体は大破し、多くの乗客の命が失われた。乗客のうち乳児一人は生存した選手であるハリー・グレッグが爆発の危険を顧みず命がけで助け出した。

原因については当初、翼の上に付着した雪または氷が影響したこと、またこのことについて操縦士が判断を怠ったためとされた。しかし後の事故調査委員会の調査で、離陸前の写真から翼に異常はなかったことが判明。更に操縦士の証言を元に実験を行うなどして検証した結果、滑走路に積もったシャーベット状の雪または氷(スラッシュ)が機を失速させたことが明らかとなり、操縦士の責任ではないことが明らかとなった。この事故で得られた経験はこれ以降、世界中の常識となった。

 

ここまでは、ウィキペディアから転載した記事だが、一部省略と加筆を行っている。////

 

この事故は、滑走路路に積もった雪が事故の原因である。現在では、除雪作業は当たり前のこととして、しっかり行われている、しかし、この頃ではそうではなかったのだ。58年前は、滑走路の雪が危険なものであるという認識が不足していたことになる。もちろん、大量に降り積もっていれば誰でも危険だと思っただろう。しかし、シャーベット状に薄っすらと残っていた雪は、それほど危険を感じさせなかったのだと思う。大雑把な言い方だが、水と雪が混じった状態で滑走路を薄く覆っていたため、タイヤがスリップして離陸速度まで達しなかったということである。

23名の犠牲者を出した事故ではあるが、もし、この事故の犠牲者が有名なイングランドのフットボール選手でなければ、記録に残らず忘れ去られていたかも知れない。