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takumi296's diary

技術士・匠習作の考へるヒント

ナホトカ号重油流出事故

航空機・船舶の事故

1997年(平成9年)1月2日午前2時。島根県隠岐島の北北東約106kmでロシア船籍のタンカー「ナホトカ号」(13,157総トン)は、機関出力が低下、操船は困難になっていた。午前3時頃大音響とともに船体に亀裂が入り、2番タンク付近で船体が分断した。また、同時刻機関室に浸水が発生し、メル・ニコブ・バレリー船長は午前3時40分に退船を決意、31名の乗組員は荒れる日本海を6艘の救命ボートに分乗した。なおバレリー船長は自らの意思で救助を拒み、後日、福井県内で遺体で発見されている。

「ナホトカ号」は、冬季暖房用のC重油をペトロパブロフロスクへ運ぶために、日本海を北上している途中だった。しかし、全長180mの船体は、船首から51mの部分で2つに折れて浸水し、同船に積まれていたC重油 約19,000klのうち6,240klが流出した。

「ナホトカ号」は、1970年にポーランドのグダニスクで建造された寒冷地の航海に耐えられる氷海仕様の船である。しかし、保守メンテナンスの状態は悪く、さびや腐食により外板や甲板の厚さが20-35%程度薄くなっていたほか、溶接が外れていた骨組みもあった。このため、船体の強度は建造時の約21万トン・メートルの約半分に低下していたと推定されている。 事故当日の日本海は大しけであり、事故の直接原因は、右舷前方から最大高さ15.3mの波を受け、2つの中央タンクの隔壁が壊れたことによるものである。

この事故では、行政側の初動活動にも問題があった。「海洋汚染及び海上災 害の防止に関する法律」(1970年制定)に拠れば流出油の処理は、船主の責任としているが、沿岸から12カイリ以内の領海内であれ ば「緊急措置」として国が油処理を行うことができる。しかし、事故が発生した地点は、その12カイリ以内には入っていなかった。そのため、北陸沿岸各地の自治体は、マスコミ報道を見て、それぞれが独自に対策本部を立て独自に対策を行った。

また、事故から一週間経った1月9日に、国内最大の油回収船「清龍丸」(運輸省所属)が若狭湾沖に到着し回収作業を始めた。しかし、油回収船は、湾内・内海などの比較的穏やかな海上での対応できるように整備されたものであり、今回のような外洋での処理にはほとんど対応できなかった。加えて、流出した重油は、海水と親和性がありエマルジョン化(乳化)した。そのため、回収した油水量は流出油量の約10倍となってしまい、防除作業に要する労力、費用が大幅 に増加した。 

その後、16日に海上災害防止センターが、福井県三国町沖に座礁している船首部分から重油を抜き取る作業を始めた。さらに2月1日、第八管区海上保安本部は海上の重油をほぼ回収したと宣言した(漂着した油の回収作業は続いていた)。

 

///// ここまでは、ウィキペディアから省略・加筆して転載した。

 

ボランティア問題が浮かび上がった事故だった。今回、調べてみてあれから16年も経っているのかと考えた事故である。海の底に沈んだ船尾の部分には重油が残っており、今も少しづつ流出しているらしい(環境に影響がでるほどではない)。